鎌倉幕府の弱体化とは、
12世紀末に誕生した武士の政権・鎌倉幕府が、
約140年のあいだに少しずつ力を失い、
最終的に 1333年の滅亡へと向かっていった流れを指します。
「どうしてあれほど強かった幕府が、なぜ倒れたのか?」
この記事では、
日本史が初めての方にもわかるように、
鎌倉幕府が弱くなっていった理由を順番に解説します。
鎌倉幕府の弱体化のポイント
- 時代:鎌倉時代後期(13世紀後半〜14世紀前半)
- 何が起きた?:政治・財政・軍事の力が次第に低下
- 結果:幕府への不満が広がり、倒幕運動が起こる
- 最終的な結末:1333年、鎌倉幕府は滅亡
そもそも鎌倉幕府はなぜ強かったの?
鎌倉幕府は、
源頼朝がつくった 武士のための政権でした。
- 武士が武士をまとめる
- 土地の支配をはっきりさせる
- 戦いに強い
こうした特徴によって、
朝廷よりも 実力のある政権として全国を支配していました。
しかし、その強さは
ずっと続いたわけではありません。
鎌倉幕府が弱体化した5つの大きな理由
① 元寇で「勝ったのに苦しくなった」
13世紀後半、
鎌倉幕府は 元寇(げんこう) という大きな戦争を経験します。
戦いには勝ちましたが、
この戦争には 大きな問題がありました。
- 外敵との戦いなので 新しい土地を得られない
- 戦った武士に 十分な恩賞を与えられない
- 防衛のために お金だけがかかる
その結果、
多くの武士が
「命がけで戦ったのに報われない」
と不満を持つようになります。
これが、
幕府の力を内側から弱める第一歩でした。
② 北条氏の独裁で不満が広がった
鎌倉幕府では、
将軍よりも 執権(しっけん)=北条氏 が実権を握る政治が続きました。
この体制は安定しているように見えましたが、
実際には
- 重要な役職が 北条一族に集中
- 他の武士が 出世できない
- 政治が 身内中心 に見える
という不満が、
多くの御家人にたまっていきました。
「幕府は、もうみんなのための政権じゃない」
そう感じる武士が増えていったのです。
③ お金と土地が足りなくなった
鎌倉幕府は、
武士に土地を与えることで成り立つ政権でした。
しかし、時代が進むにつれて
- 新しく与えられる土地が なくなる
- 相続で土地が 細かく分かれる
- 武士の生活が 苦しくなる
という問題が起こります。
土地を守る力が弱くなれば、
幕府への忠誠心も弱まります。
これにより、
幕府を支えていた 御家人制度そのものが揺らぎました。
④ 天皇による「倒幕運動」が始まった
14世紀に入ると、
後醍醐天皇が
「天皇が政治を行う時代を取り戻したい」
と考え、
**鎌倉幕府を倒す動き(倒幕運動)**を始めます。
これが
正中の変 → 元弘の変 へとつながり、
幕府は初めて
「天皇と正面から対立する存在」
になりました。
この時点で、
幕府はもはや
全国から無条件に支持される存在ではなくなっていたのです。
⑤ 有力武士が幕府を見限った
幕府が弱体化すると、
これまで幕府を支えてきた武士の中からも、
離反する者が現れます。
代表例が
- 足利尊氏
- 新田義貞
です。
彼らのような有力武士が
幕府を見限って倒幕側についたことで、
鎌倉幕府は 軍事的にも決定的に不利になりました。
鎌倉幕府弱体化の流れを整理
- 元寇後、武士の不満が高まる
- 北条氏の独裁に反発が広がる
- 土地とお金が足りなくなる
- 後醍醐天皇の倒幕運動が始まる
- 有力武士が幕府から離れる
- 1333年、鎌倉幕府滅亡
よくある疑問
鎌倉幕府はいつごろから弱くなったの?
本格的な弱体化は、
元寇(13世紀後半)以降と考えられています。
幕府がすぐ滅びなかったのはなぜ?
北条氏の政治力と軍事力があったため、
すぐには崩れませんでした。
しかし、内側の不満は止められず、
時間をかけて崩れていったのです。
一番大きな原因は何?
一つに決めることはできませんが、
武士の不満が積み重なったことが最大の原因です。
まとめ|鎌倉幕府の弱体化は「内側からの崩れ」だった
鎌倉幕府は、
敵に一気に倒された政権ではありません。
- 元寇後の不満
- 北条氏の独裁
- 経済の行き詰まり
- 天皇の倒幕運動
- 有力武士の離反
こうした問題が少しずつ積み重なり、
内側から崩れていった政権でした。
だからこそ、
鎌倉幕府の滅亡は
突然の事件ではなく、
長い弱体化の結果として起こった必然だったのです。
この流れを理解すれば、
なぜ日本史が
鎌倉時代から南北朝時代へと進んだのかが、
自然と見えてきます。

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