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第19代 允恭天皇

仁徳天皇の皇子で反正天皇の弟の允恭天皇。
履中天皇、反正天皇そして、允恭天皇と兄弟間で天皇位が継承されてきた。

允恭天皇は体が弱く皇位継承を拒否していたが妻や臣下に懇願され即位を決意します。
即位後は新羅の使者の薬により病が癒え積極的に政務をこなすようになります。

允恭天皇は乱れた氏姓制度を改革し政権支配の基盤を整えていきました。

允恭天皇

在位期間:412年〜453年
和風諡号:オアサヅマワクゴノスクネ

允恭天皇は倭の五王の”済”とする説があります。

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病弱な次期天皇

反正天皇が没した後は次期天皇は弟のワクゴノスクネとされていました。

しかし、ワゴスノスクネは体が弱く、そのことから父や兄たちから疎まれていたと日本書紀に記述があります。

体の弱かったワクゴノスクネは次期天皇を病を理由に固辞していました。しかし、皇后や重臣に懇願され断りきれなくなり次期天皇になることを決心しました。

412年、ワクゴノスクネは允恭天皇として即位。即位後は新羅の使者が作った薬により病が癒え積極的に政務を執りはじめました。

盟神探湯による氏姓制度の改革

允恭天皇の実績として有名なものは氏姓制度の改革です。

この時代の氏姓制度は有力豪族が勝手に姓を名乗り制度とは名ばかりのものになっていました。国家の統治秩序をみだしていたのです。

そこで、允恭天皇は盟神探湯くかたちを実施することで氏姓制度を正していきました。
盟神探湯とは一種の誓約のようなもので物事の正邪を神に判断してもらうというものです。

盟神探湯の具体的な方法は熱湯に入れ手がただれるかどうかという方法でした。ただれたら姓を偽っておりただれなければ国が認めた正式な姓を名乗っていると判断されたのです。

盟神探湯により姓を偽るものはいなくなったとされています。

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