6世紀末に推古天皇が奈良県の飛鳥地方に遷都したことにより飛鳥時代が始まりました。
飛鳥時代は蘇我氏の滅亡や壬申の乱、日本が初めて海外と本格的な戦争をした白村江の戦いがあり激動の時代です。
国の中央集権体制が本格的に強化された時代でもあります。
飛鳥時代を理解するキーワード
- 蘇我氏の台頭
- 遣隋使の派遣
- 乙巳の変
- 大化の改新
- 白村江の戦い
- 壬申の乱
- 藤原不比等
- 大宝律令の完成
飛鳥時代を年表で見る
天皇 | 在位年 | 年 | 事象 |
---|---|---|---|
推古天皇 | 589~628 | 593 | 推古天皇が即位し都を飛鳥に移す 聖徳太子が推古天皇の摂政に就く |
603 | 聖徳太子が冠位十二階を制定する | ||
604 | 聖徳太子が憲法十七条の制定する | ||
607 | 遣隋使として小野妹子が派遣される | ||
622 | 聖徳太子が亡くなる | ||
626 | 蘇我馬子がなくなる | ||
628 | 推古天皇が崩御 | ||
舒明天皇 | 629~641 | 629 | 蘇我蝦夷と山背大兄王(聖徳太子の子)が対立 |
630 | 遣唐使の派遣 | ||
641 | 舒明天皇が崩御 | ||
皇極天皇 | 642~645 | 642 | 舒明天皇の皇后が皇極天皇として即位 |
643 | 蘇我蝦夷、蘇我入鹿が山背大兄王を襲撃し殺害 | ||
645 | 乙巳の変により蘇我氏本家が滅亡 | ||
大化の改新 | |||
孝徳天皇 | 645~654 | 孝徳天皇即位(都を難波へ移す) | |
646 | 改新の詔 | ||
653 | 中大兄皇子が飛鳥へ戻る | ||
654 | 孝徳天皇が崩御 | ||
斉明天皇 | 655~661 | 655 | 退位した皇極天皇が斉明天皇として重祚する |
658 | 阿部比羅夫が津軽方面の蝦夷を討伐 | ||
660 | 百済滅亡 | ||
661 | 斉明天皇が崩御 | ||
天皇不在 | 663 | 天皇不在で中大兄皇子が政務を執る | |
白村江の戦い | |||
667 | 近江大津宮へ遷都する | ||
天智天皇 | 668~671 | 668 | 中大兄皇子が天智天皇として即位する |
670 | 庚午年籍の作成 近江令の発布 | ||
671 | 天智天皇が崩御 | ||
壬申の乱 | |||
(弘文天皇) | 671~672 | 672 | 壬申の乱により天智天皇の皇子である弘文天皇が崩御 |
天武天皇 | 673~686 | 673 | 天武天皇即位 |
686 | 天武天皇が崩御 | ||
天皇不在 | 689 | 天皇没後は天武天皇の妃である鸕野讚良皇女が政務を執る | |
飛鳥浄御原令の発布 | |||
持統天皇 | 690~697 | 690 | 鸕野讚良皇女が持統天皇として即位する |
庚寅年籍の制定 | |||
694 | 藤原京(奈良県)へ遷都 | ||
文武天皇 | 697~707 | 697 | 文武天皇即位 |
701 | 大宝律令の発布 | ||
702 | 遣唐使の派遣 | ||
707 | 文武天皇が崩御 | ||
元明天皇 | 707~715 | 元明天皇が即位 | |
和同開珎が鋳造される | |||
710 | 平城京(奈良県)へ遷都し奈良時代が開始する |
天皇 | 在位年 | 年 | 事象 |
---|---|---|---|
推古天皇 | 589~628 | 593 | 推古天皇が即位し都を飛鳥に移す 聖徳太子が推古天皇の摂政に就く |
603 | 聖徳太子が冠位十二階を制定する | ||
604 | 聖徳太子が憲法十七条の制定する | ||
607 | 遣隋使として小野妹子が派遣される | ||
622 | 聖徳太子が亡くなる | ||
626 | 蘇我馬子がなくなる | ||
628 | 推古天皇が崩御 | ||
舒明天皇 | 629~641 | 629 | 蘇我蝦夷と山背大兄王(聖徳太子の子)が対立 |
630 | 遣唐使の派遣 | ||
641 | 舒明天皇が崩御 | ||
皇極天皇 | 642~645 | 642 | 舒明天皇の皇后が皇極天皇として即位 |
643 | 蘇我蝦夷、蘇我入鹿が山背大兄王を襲撃し殺害 | ||
645 | 乙巳の変により蘇我氏本家が滅亡 | ||
大化の改新 | |||
孝徳天皇 | 645~654 | 孝徳天皇即位(都を難波へ移す) | |
646 | 改新の詔 | ||
653 | 中大兄皇子が飛鳥へ戻る | ||
654 | 孝徳天皇が崩御 | ||
斉明天皇 | 655~661 | 655 | 退位した皇極天皇が斉明天皇として重祚する |
658 | 阿部比羅夫が津軽方面の蝦夷を討伐 | ||
660 | 百済滅亡 | ||
661 | 斉明天皇が崩御 | ||
天皇不在 | 663 | 天皇不在で中大兄皇子が政務を執る | |
白村江の戦い | |||
667 | 近江大津宮へ遷都する | ||
天智天皇 | 668~671 | 668 | 中大兄皇子が天智天皇として即位する |
670 | 庚午年籍の作成 近江令の発布 | ||
671 | 天智天皇が崩御 | ||
壬申の乱 | |||
(弘文天皇) | 671~672 | 672 | 壬申の乱により天智天皇の皇子である弘文天皇が崩御 |
天武天皇 | 673~686 | 673 | 天武天皇即位 |
686 | 天武天皇が崩御 | ||
天皇不在 | 689 | 天皇没後は天武天皇の妃である鸕野讚良皇女が政務を執る | |
飛鳥浄御原令の発布 | |||
持統天皇 | 690~697 | 690 | 鸕野讚良皇女が持統天皇として即位する |
庚寅年籍の制定 | |||
694 | 藤原京(奈良県)へ遷都 | ||
文武天皇 | 697~707 | 697 | 文武天皇即位 |
701 | 大宝律令の発布 | ||
702 | 遣唐使の派遣 | ||
707 | 文武天皇が崩御 | ||
元明天皇 | 707~715 | 元明天皇が即位 | |
和同開珎が鋳造される | |||
710 | 平城京(奈良県)へ遷都し奈良時代が開始する |
古墳時代から飛鳥時代へかけての時代背景
538(552年説もあり)年に仏教が朝鮮半島から日本に伝えられました。
仏教推進派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が激しく対立することになります。蘇我氏と物部氏は国の有力豪族であり親子2代にわたる争いに発展することになるが蘇我馬子が物部尾輿を滅ぼす『衣摺の戦い』に勝利し本格的に仏教が国に広がることになりました。
蘇我氏と物部氏の仏教を国へ広めるかどうかの争いを崇仏論争と呼び勝利した蘇我氏が飛鳥時には政治の実権を握り専横を強めていくことになります。
蘇我氏の台頭
592年
物部氏に勝利した蘇我馬子は朝廷内で向かう所敵なしの権力者になっていました。振る舞いは自らが天皇のようであり時の天皇である崇峻天皇を蔑ろにする専横振りです。
当然、崇峻天皇はそのことを快く思うはずもなく蘇我氏主導の政治体制に不満をもっていました。
蘇我馬子は崇峻天皇が自身に不満を持っていること知ると部下に崇峻天皇の暗殺を命じます。
蘇我馬子の命令を受けた部下は崇峻天皇を暗殺してしまいました。
臣下による天皇暗殺は2000年続く日本の歴史の中でも最初で最後のことでした。
崇峻天皇を排除した蘇我馬子は自分の姪である炊屋姫を推古天皇として即位させ自身は摂政に就き推古天皇をサポートするという形から権力の掌握を強めていった。
蘇我氏と天皇、聖徳太子による政治
蘇我馬子が推古天皇を即位させると593年には推古天皇の甥で蘇我馬子の娘婿である聖徳太子を摂政の座につけた。
蘇我馬子、推古天皇、聖徳太子と蘇我氏と関わりの深い人物で国政治の実権を掌握。
蘇我氏の権力基盤は揺るぎないものとなった。
仏教推進派である蘇我氏の意向もあり推古天皇は仏教をさらに重んじると宣言。いっぽう日本古来の神も同様に祀り続けると宣言する。
推古天皇の仏教を重んじよという言葉を受け豪族たちはこぞって寺を建て始めるようになった。
冠位十二階と十七条の憲法
蘇我馬子、推古天皇、聖徳太子の三者による政治がおこなわれていた頃、海の向こうの朝鮮半島では百済、高句麗、新羅の三国争いに大国の隋もからむ争いが起こっていた。
百済と関わりが深く過去には援軍を送ることもあった日本も海外の脅威に備える必要でてきた。
そこで、聖徳太子は海外と渡り合えるような仕組が必要であると考え603年に冠位十二階を制定位。翌年には十七条憲法も制定する。
冠位十二階
大国の隋のように皇帝を中心とした支配体制として制定された。
役人の序列を改め、個人の能力を優先した実力主義の体制である。
位を12個に分け能力や手柄によって出世できるようにし位ごとに服の色を定め序列を明確にする制度。
しかし、冠位十二階には皇族や蘇我氏は含まれず彼らは冠位を超えた存在として制度の対象から外れていた。
十七条憲法
海外の脅威に対抗するため役人や貴族が守るべき道徳的規範を十七条にまとめたもので儒教や仏教の思想もとりいれられた。
・1〜3条:国のあり方を説いた
『第1条:和を大切にせよ』
『第2条:仏教を信仰せよ』
『第3条:天皇の命令には必ず従え』
・第4条からは組織、人間関係などのありかたを説いた
『第4条:身分の高い人も低い人も例に基づく行いをすれば国は自然と治る』
『第5条:権力者に有利な裁判はせず公平にせよ』
『第6条:人の善行を褒め、悪行を改めさせよ』
『第7条:役職に適した人を選べ』
『第8条:勤勉に仕事せよ』
『第9条:すべてのことに真心をもってあたれ』
『第10条:怒りを抑え心を広く持って寛容にせよ』
『第11条:功績と悪事を見分けて賞罰を公平に行え』
『第12条:租税を取る権利は天皇だけである』
『第13条:自分の担当する仕事や役目をよく知れ』
『第14条:人を羨んではならない』
『第15条:国や民のために尽くせ』
『第16条:農閑期を利用して民を使う良きことである』
『第17条:重要な決め事は大勢と相談して決めよ』
遣隋使の派遣
聖徳太子が残したもう一つ重要な業績は倭の五王以来となる数百年ぶりの中国への遣史の派遣です。
実は、聖徳太子は600年から618年までに5回遣使しています。
第1回目の遣隋使はなんらかの失敗があり日本は未開拓な野蛮な国と隋の皇帝に認識されていたようです。
聖徳太子の急ピッチな中央集権化は隋にその認識を改めさせるためだったようです。
遣隋使の中で一番知名度があるのが小野妹子です。聖徳太子は小野妹子に国書として『日出ずる処の天子、日没する所の天子に書を致す』と送っています。
これまでの、遣使は中国を上と見た朝貢外交でしたが聖徳太子は対等外交を目指しかなり挑発的な国書を隋に送りました。
この、国書を読んだ隋の皇帝『煬帝』は臣下の礼をとらないことに激怒したと言われています。
しかし、この頃の隋は隣国の高句麗と対立しており日本が高句麗サイドに付くことを恐れたため日本と対等外交を結ぶことを認めました。
なかなかに危険な外交でしたが聖徳太子は隋の置かれている状況を把握していたのでしょうか、政治センスの高さがうかがえる出来事です。
蘇我氏の専横
推古天皇のもと聖徳太子と蘇我氏による中央集権化は着実に進められました。
このころは、聖徳太子の影響力も蘇我氏に引けを取らず蘇我氏の専横を抑制することができていました。
しかし、622年に聖徳太子が亡くなるとパワーバランスが蘇我氏に傾きます。
626年に蘇我馬子が亡くなると蘇我氏の権力は息子の蘇我蝦夷が引き継ぎます。
蘇我蝦夷は自分たちの墓を「大陵」「小陵」と呼ばせたり屋敷を「上の宮門」、子供を「王子」と呼んだりしていました。こうした呼称は天皇にしか許されたものではなく明らかな越権行為です。
蘇我氏が聖徳太子の息子を襲撃
そして、628年に推古天皇が崩御すると後継者をめぐる対立がおきます。
蘇我氏は田村皇子(後の舒明天皇)を擁立し蘇我氏の支配を絶対のものにしようとしました。
いっぽう蘇我氏の専横を嫌った半蘇我氏陣営は聖徳太子の子である山背大兄王を推薦します。
蘇我蝦夷は山背大兄王を推薦した叔父の境部摩理勢を殺害。蘇我蝦夷の息子である蘇我入鹿はライバルである山背大兄王含む聖徳太子の一族を根絶やしにしました。
蘇我氏のライバルとなる人物を次々に殺害した蘇我蝦夷と蘇我入鹿の専横が頂点に達した時でした。
中大兄皇子と中臣鎌足の出会い
蘇我氏の専横に朝廷内やその周辺の不満は高まります。
そんな時に、中大兄皇子と中臣鎌足が出会います。この二人の出会いが蘇我氏の絶対的権力を崩壊に導くことになります。
二人が出会ったのは飛鳥寺でした。飛鳥寺で蹴鞠の会に参加していた中大兄皇子の脱げた靴を中臣鎌足が拾ったことがきっかけになり二人は意気投合します。
中大兄皇子は舒明天皇と皇極天皇との間に生まれた皇子で尊い血筋であり次期天皇になれる立場でした。
しかし、異母兄の古人大兄王子が蘇我氏の血を引いていたため即位できるかわからない状況でした。
中臣鎌足は祭祀をもって政権に仕える有力豪族でしたが蘇我氏政権かでは冷遇されています。
乙巳の変
そんな二人は蘇我氏打倒の計画を練ります。
蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂を仲間に引き入れ645年(大化元年)6月に蘇我入鹿を殺害します。
この時、朝鮮3国が天皇に貢物を献上する『三韓進調の日』でした。
蘇我入鹿を呼び出した二人は儀式の最中に蘇我入鹿を斬殺します。
計画では仲間に引き入れた蘇我倉山田石川麻呂が使者の書を読み上げている最中に配下が斬り殺す手筈だったのですが恐れをなした配下は動けなくなり中大兄皇子が自ら斬り殺したと言われています。
蘇我入鹿を殺害した中大兄皇子は飛鳥寺に陣を敷き軍備を整えて蘇我蝦夷を打倒する計画を練ります。しかし、息子の蘇我入鹿が殺されたことを知った蘇我蝦夷は勝てる見込みがないと観念し自刃して果てます。
こうして蘇我氏本流を滅亡させた中大兄皇子が中臣鎌足と協力し蘇我氏に変わり政治を主導していくことになります。
この蘇我氏本流を滅亡に追い込んだ事件を『乙巳の変』と呼びます。
大化の改新と改新の詔
乙巳の変がおこった時は舒明天皇の皇后である皇極天皇が即位していました。そして、乙巳の変の後は皇極天皇の弟である孝徳天皇が即位します。
中大兄皇子は皇太子として政治の実権を握り新政権を担います。
孝徳天皇が名目上の政治のトップ、ついで実権を握った中大兄皇子、左大臣には阿部内麻呂、右大臣に乙巳の変で味方についた蘇我倉山田石川麻呂、盟友である中臣鎌足は内臣として中大兄皇子をサポートしました。
日本で初めて大化という元号が定められたのが645年。そして、大化元年の12月にはまだ完成していない難波へ遷都をおこないます。
新しい土地、新しいメンバーでスタートした政治改革を大化の改新と呼びます。
改新の詔
大化の改新の具体的な内容は4つからなる画期的なものでした。
改新の詔
- 公地公民の実施
- 地方制度の整備
- 班田収授法の施工
- 税制改革の実施
百済滅亡と唐・新羅連合軍の脅威
日本で大化の改新が進んでいた頃、朝鮮半島では高句麗と百済が連携して新羅に攻め込むと新羅は煬帝の失政により滅んだ隋の後に生まれた唐と手を結び反撃します。
660年には大国である唐と手を組んだ新羅の勢いを抑えることができなくなり百済は滅亡します。
滅んだ百済の人たちは外交の繋がりのあった日本に救援を要請します。
日本も百済が占領されると防波堤となる国が存在しなくなり唐・新羅連合軍の脅威から国を守るために救援要請に応えます。
いよいよ古代日本で初めての海外での本格的な戦争の始まりです。
白村江の戦い
661年
時の天皇は斉明天皇に代わっていました。斉明天皇は中大兄皇子とその弟である大海人皇子を従え九州に上陸。しかし、戦の準備中に斉明天皇は亡くなってしまいます。
斉明天皇に変わり戦の指揮をとったのが中大兄皇子でした。
663年8月
ついに唐・新羅連合軍と激突します。
朝鮮半島の南西部の白村江河口付近で戦いましたが日本軍は唐軍に包囲され大敗。
日本の命運をかけた本格的な海外での戦争は白村江の戦いと呼ばれ新政権を樹立したばかりの日本にはとてつもなく大きな衝撃でした。
この戦いの後、日本は朝鮮半島での権益や影響力をほとんど失うことになります。
そして、最大戦力で挑んだにも関わらず戦いに大敗した日本は唐・新羅の連合軍の脅威から国を護ため西日本に朝鮮式山城を築き守りを固めました。
敗戦し帰国した中大兄皇子は海岸から離れた近江の大津宮へ遷都し天皇に即位することを決めます。
中大兄皇子の即位とその治世
668年
近江の大津宮へ遷都した中大兄皇子は天智天皇として即位します。
天智天皇は唐・新羅連合軍に対抗するため急ピッチで中央集権化を進めていきます。
日本最初の戸籍『庚午年籍』、体系的法典『近江令』を制定しました。
しかし、即位からわずか三年で病に伏してしまいます。
藤原氏の祖『中臣鎌足』の死
天智天皇や大海人皇子と共に中央集権化の先頭に立っていた中臣鎌足が669年に亡くなります。
乙巳の変を含めた大化の改新に尽力した中臣鎌足にたんじ天皇はこの時代の最高冠位である大織冠のくらいと藤原の姓を授けます。
鎌足が死の直前で与えられた『藤原』の姓は彼の子孫にも受け継がれ後に最も有力な貴族になっていくことになります。
古代最大の皇位継承争い『壬申の乱』
病に伏した天智天皇は後継者に弟の大海人皇子を指名していました。大海人皇子は国政にも参加しており白村江の戦いでも武勇を広めており周囲も納得の人事です。
しかし、晩年の天智天皇は息子の大友皇子に位を譲りたいと考えるようになります。
大海人皇子は天智天皇の心変わりを良く思っていませんでした。
それは宴会の席で大海人皇子が舞を披露した際、矛を天智天皇の近くに刺すという蛮行をおこなったという話にも現れています。
しかし、大海人皇子が不満に思っていることも承知の上で自分の息子に皇位を譲りたいと考えた天智天皇は大友皇子を太政大臣に任命し実績を積ませようとします。
次第に大海人皇子や周辺の家臣からも不満の声が出始めるようになりました。
天智天皇が亡くなられる2ヶ月ほど前に大海人皇子を呼び出します。そして、次期天皇は大海人皇子を据えることにし後を託しすと告げます。
大海人皇子は天智天皇の本心を察しこのまま、近江で過ごしていたら命の危険があると判断し天智天皇の後は託すという話を断り出家します。
671年
天智天皇が崩御します。
天智天皇の崩御後に大友皇子が陵を作るという名目で武器を集めているという噂が流れそれをそれを知った大海人皇子は大友皇子が攻めてくると判断します。
こうして、天智天皇の息子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子が激突します。
畿内や、地方の豪族たちは大海人皇子サイドに味方します。兵数でも、士気でも勝っていた大海人皇子の軍は東国への交通の要所である不破関と鈴鹿関を封鎖させ大友皇子率いる朝廷軍を圧倒しました。
止まることの知らない大海人皇子の軍に朝廷軍は大敗。大友皇子は敗北を悟ると自ら火を放ち炎の中で自害しました。
大友皇子は皇位を継ぐことなく亡くなりましたが明治政府により弘文天皇という名前を贈られることになります。
大海人皇子(天武天皇)即位とその治世
壬申の乱で勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原で天武天皇として即位します。
天武天皇は大臣を置かず皇子や皇族が政務を補佐する皇親政治を展開します。蘇我氏の支配を知っていた天武天皇は国の政治は天皇がおこなうべきだと考えたのです。
そして、中央集権化を強化するため律令体制を徹底させます。
刑罰を定めた『律』と行政を定めた『令』に基づく政治から国の形を整えようとしたのです。
681年
飛鳥浄御原宮令の編纂を開始。
684年
八色の姓という身分制度を制定。
また、それまで大王という君主号を使用していましたがこの時より天皇という君主号を使用し始めます。
国内や国外への天皇の統治の正当性をアピールするため古事記、日本書紀の編纂も命じました。
684年
さらに藤原京の造営を開始します。
壬申の乱で政敵を葬り去ったことで天武天皇の力は強大なものとなり、このようにさまざまな政治改革をおこなうことができました。
皇后の天皇即位
天皇に再び権力を戻すため律令制度の強化に力を注いでいた天武天皇であったが686年崩御される。
天武天皇の跡取り候補には大津皇子と草壁皇子がいました。二人は異母兄弟であり大津皇子は才能に溢れ天皇や周囲の人からの信頼も厚い人物でした。
しかし、大津王子は謀反の疑いで捕えられてしまいます。その数日後には処刑され妃であった山辺皇女も後を追い亡くなります。
大津皇子の謀反は天武天皇の妃であった鸕野讚良皇后が仕組んだともいわれており鸕野讚良皇后は自らの子である草壁皇子に皇位を継がせたかったという説が有力です。
本当か、嘘かはわかりませんが結果的に大津王子が処刑され皇太子には草壁皇子が選ばれました。
鸕野讚良皇后は天武天皇から強く寵愛を受けており壬申の乱の際には自ら戦場で指揮をとるなど天武天皇を献身的にサポートしていました。
そんな鸕野讚良皇后でしたが息子の草壁皇子が即位目前で亡くなってしまいます。
夫の天武天皇に続き息子の草壁皇子まで失った鸕野讚良皇后は690年に自らが天皇に即位し持統天皇として政務をおこないます。
持統天皇は天武天皇の事業を引き継ぎ律令制度の完成を進めます。
藤原京遷都
飛鳥浄御原令に元づいて庚寅年籍という戸籍を作成し694年には天武天皇が造営を始めた藤原京へ遷都します。
そして、持統天皇は自らが中継ぎとなり草壁皇子の子であり自身の孫にあたる軽皇子が文武天皇として即位する697年まで政務を担いました。
697年に皇位を譲った持統天皇は太上天皇(上皇)として文武天皇をサポートします。
藤原氏2代目『藤原不比等』
持統天皇が孫の軽皇子を皇太子にする際にサポートした人物が藤原不比等です。
藤原不比等は藤原(中臣)鎌足の第2子であり藤原家の当主でした。軽皇子が文武天皇として皇位につくと娘の宮子を入内(天皇に嫁がせる)させます。
そして、持統天皇が天武天皇から引き継いだ律令制度の完成をサポートしたのも藤原不比等です。
藤原不比等は唐の『永徽律疏』『永徽令』を参考に701年に大宝律令を完成させます。
入内した宮子は文武天皇との間に首皇子を出産します。首皇子は後に聖武天皇として即位することになり藤原氏の外戚政策の先駆けとなりました。
大宝律令の発布
藤原不比等が大宝律令は二官八省の官僚制や地方行政組織を規定した日本初の本格的な法律です。
大宝律令の完成により政治の仕組みが整い日本は天皇中心とした律令に基づく国として機能するようになりました。
平城京へ遷都の詔そして、奈良時代へ
大宝律令が完成した翌年の702年に持統太上天皇が崩御します。持統太上天皇は天皇としては初めての火葬で夫である天武天皇と一緒に葬られました。
そして、文武天皇も707年に崩御。後を継いだのは文武天皇の母であり、天智天皇の娘でもあった元正天皇です。
元明天皇も孫の首皇子が皇位につくまでの中継ぎとして即位しました。そんな元明天皇をサポートしたのも藤原不比等でした。
710年には元明天皇は律令制度の完成にともない、それを行うにふさわしい新たな都『平城京』に遷都を決め奈良時代の始まりです。
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