元明天皇が飛鳥地方の藤原京から平城京へ遷都した710年から奈良時代が始まります。
この時代の日本は藤原氏、皇族、僧(仏教)で権力争いが行われ権力者がころころ変わる事が特徴です。その中でも藤原氏は平安時代に登場する武士や上皇が力をつけるまで政治の実権を握り朝廷を凌ぐほど絶大な権力を確立しました。
そして、今後の国のあり方を変えるほどの影響を与えた土地制度の改革『墾田永年私財法』が制定されたのも奈良時代です。
覚えておきたいキーワード
- 律令国家の誕生
- 藤原氏と皇族の政権争い
- 藤原氏の外戚政治
- 仏教の台頭
- 墾田永年私財法による律令制度の崩壊
- 称徳天皇と道鏡
- 奈良仏教からの脱却
天皇 | 在位年 | 年 | 事象 |
---|---|---|---|
元明天皇 | 707~715 | 710 | 平城京へ遷都 |
711 | 蓄銭叙位令の制定 | ||
712 | 出羽国設置 古事記編纂 | ||
元正天皇 | 715~724 | 715 | 元正天皇が即位する |
716 | 光明子が人臣で初となる皇族の妃になる | ||
718 | 養老律令の制定 | ||
光明子が皇子(孝謙天皇)を出産 | |||
720 | 藤原不比等が死去 | ||
722 | 長屋王による百万町歩開墾計画の立案 | ||
723 | 三世一身の法の制定 | ||
聖武天皇 | 729~749 | 724 | 聖武天皇即位 |
729 | 長屋王の変 | ||
737 | 藤原四子が天然痘で死去する | ||
橘諸兄が実権を握る | |||
740 | 藤原広嗣の乱 | ||
平城京から恭仁京へ遷都する | |||
741 | 国分寺建立の詔 | ||
恭仁京から紫香楽へ遷都する | |||
743 | 大仏造立の詔 | ||
墾田永年私財法の制定 | |||
744 | 紫香楽から難波へ遷都する | ||
745 | 難波から平城京へ遷都する | ||
行基が大僧正に任ぜられる | |||
孝謙天皇 | 749~758 | 749 | 孝謙天皇が即位する |
756 | 聖武太上天皇が崩御 | ||
757 | 橘諸兄が死去 | ||
橘奈良麻呂の乱 | |||
淳仁天皇 | 758~764 | 758 | 淳仁天皇が即位する |
760 | 光明子が死去 | ||
764 | 恵美押勝の乱 | ||
称徳天皇 | 764~770 | 孝謙天皇が称徳天皇として重祚 | |
766 | 道鏡が太政大臣禅師・法王に就任する | ||
769 | 宇佐八幡宮信託事件 | ||
光仁天皇 | 770~781 | 770 | 道鏡追放 |
光仁天皇が即位する | |||
桓武天皇 | 737~806 | 781 | 桓武天皇が即位する |
784 | 長岡京に遷都する | ||
785 | 藤原種継の暗殺 | ||
792 | 健児制を制定 | ||
794 | 平安京へ遷都する |
天皇 | 在位年 | 年 | 事象 |
---|---|---|---|
元明天皇 | 707~715 | 710 | 平城京へ遷都 |
711 | 蓄銭叙位令の制定 | ||
712 | 出羽国設置 古事記編纂 | ||
元正天皇 | 715~724 | 715 | 元正天皇が即位する |
716 | 光明子が人臣で初となる皇族の妃になる | ||
718 | 養老律令の制定 | ||
光明子が皇子(孝謙天皇)を出産 | |||
720 | 藤原不比等が死去 | ||
722 | 長屋王による百万町歩開墾計画の立案 | ||
723 | 三世一身の法の制定 | ||
聖武天皇 | 729~749 | 724 | 聖武天皇即位 |
729 | 長屋王の変 | ||
737 | 藤原四子が天然痘で死去する | ||
橘諸兄が実権を握る | |||
740 | 藤原広嗣の乱 | ||
平城京から恭仁京へ遷都する | |||
741 | 国分寺建立の詔 | ||
恭仁京から紫香楽へ遷都する | |||
743 | 大仏造立の詔 | ||
墾田永年私財法の制定 | |||
744 | 紫香楽から難波へ遷都する | ||
745 | 難波から平城京へ遷都する | ||
行基が大僧正に任ぜられる | |||
孝謙天皇 | 749~758 | 749 | 孝謙天皇が即位する |
756 | 聖武太上天皇が崩御 | ||
757 | 橘諸兄が死去 | ||
橘奈良麻呂の乱 | |||
淳仁天皇 | 758~764 | 758 | 淳仁天皇が即位する |
760 | 光明子が死去 | ||
764 | 恵美押勝の乱 | ||
称徳天皇 | 764~770 | 孝謙天皇が称徳天皇として重祚 | |
766 | 道鏡が太政大臣禅師・法王に就任する | ||
769 | 宇佐八幡宮信託事件 | ||
光仁天皇 | 770~781 | 770 | 道鏡追放 |
光仁天皇が即位する | |||
桓武天皇 | 737~806 | 781 | 桓武天皇が即位する |
784 | 長岡京に遷都する | ||
785 | 藤原種継の暗殺 | ||
792 | 健児制を制定 | ||
794 | 平安京へ遷都する |
律令制度
飛鳥時代に聖徳太子、天智天皇、桓武天皇、持統天皇らにより整えられていった中央集権国家を実現するために律令制度も奈良時代になり本格的に開始となりました。
律と令
律 | 刑法 |
令 | 行政 |
律令の律とは刑法を定め令は国家を運営する法律すなわち行政を定めたものです。
天皇を中心とした支配体制で古代より続いた豪族、貴族による大勢から脱却したものです。
豪族、貴族に変わり天皇が定めた人物を官僚とし国家を運営する体制で二官八省からなっています。
地方は、国・郡・里に分けられました。今で言う県・市・町のようなものです。
律令体制では原則として公地公民すなわち国の土地、人はすべて天皇のものであることが定められていました。
律令制度を簡単
・日本の支配者は天皇です
・全ての土地、国民も天皇のものです
・天皇以外に強大な権力を持つ者は許しません
・国家を運営する官僚は天皇が任命します
・天皇の決めたことを破ると罰があります
律令制度は中国の隋、唐にならい作られましたが日本の律令制度は中国のものと違いが多く見られました。
そんな、律令制度のもと激動の奈良時代が幕を開けることになりました。
藤原不比等の政治と外戚による権力の強化
奈良時代の特徴の一つは政権のリーダーが藤原氏、皇族で取り合っていることです。奈良時代後期には道鏡というお坊さんがでてきますが最終的には藤原氏が権力を強めていきます。
そして、その礎を築いたのは藤原不比等です。
父である中臣鎌足(藤原鎌足)と同じく官僚として天皇をサポートしていました。
天武天皇亡き後は女性天皇として即位した持統天皇をサポートし元明天皇、元正天皇と女性天皇を支えました。
藤原不比等が関わった政策
藤原不比等は大宝律令の施行、平城京の遷都、和同開珎の発行、風土記、古事記、日本書紀、養老律令の編纂や九州や東北地方の制圧による境域拡大、建郡建国など様々な政治政策を主導しました。
藤原不比等の関わった政策
- 大宝律令の施行
- 平城京への遷都
- 和同開珎の発行
- 風土記、古事記、日本書紀の編纂
- 養老律令の編纂
- 地方制圧による境域拡大
- 建郡建国
数々の政策に携わり天皇からの信頼も厚い不比等は藤原家の拡大に大きく貢献していきます。なかでも、二人の娘を天皇に嫁がせることが家の拡大に大きく影響します。
藤原不比等の二人の娘
不比等には宮子と光明子という二人の娘がいました。
不比等は天皇家と距離を縮めるため二人の娘を天皇に嫁がせることにしました。
697年に宮子を文武天皇の妃にすることで不比等は天皇家の外戚として藤原家の政治基盤を築いていきます。
宮子と文武天皇の間には首皇子(聖武天皇)が生まれました。しかし、707年に文武天皇が亡くなります。この事態は不比等にとっては不本意なことでした。
なぜなら聖武天皇はこの時、7歳と天皇に即位するには幼すぎたのです。焦った不比等は持統太上天皇と共に聖武天皇が成人するまでの時間稼ぎを計画しました。
母から娘へ特例中の特例の皇位継承
聖武天皇の母を天皇にしたのです。聖武天皇の母は元明天皇として即位します。元明天皇が高齢を理由に退位すると今度は元明天皇の娘に皇位を継がせます。
元明天皇、元正天皇はあくまで聖武天皇が成人するまでの中継ぎとして皇位を継いだということです。これは特例中の特例で母から娘への皇位継承はこれが最初で最後でした。
藤原氏の外戚
不比等は716年には首皇子(聖武天皇)に娘の光明子を嫁がせます。
数々の政治の実績を残し大物政治家として活躍する一方で天皇の外戚という立場から権力を強化した不比等は720年、63歳でこの世を去りました。
そして、不比等が亡くなって4年経った724年に不比等の願い通りに聖武天皇が即位することになります。
こうして不比等は宮子、光明子の二人の娘を天皇に嫁がせることに成功しました。
文武天皇が早逝するというハプニングもありましたが藤原氏は外戚として権力を掌握していくことに成功します。
長屋王と藤原四子
藤原不比等が亡くなると4人の息子が権力を引き継ぎます。
- 長男:武智麻呂
- 次男:房前
- 三男:宇合
- 四男:麻呂
藤原不比等の4人の息子を藤原四子とまとめて呼ぶこともあります。藤原四子は光明子と聖武天皇の間に生まれた基皇子を次期天皇にして外戚のポジションを保とうとします。
当然、藤原氏のやり方に異を唱える者たちがいました。その者たちは長屋王という皇族を支持し反藤原氏を唱えます。
長屋王は藤原不比等が亡くなった後、左大臣に就任し藤原四子に変わり政治を主導しました。
血筋にも恵まれた存在で父は高市皇子(天武天皇の長男)、母は天智天皇の娘で御名部皇女です。天智天皇系と天武天皇系の両方の血を受け継ぎ皇族の中でも貴種な存在です。
皇親政治を進めたい長屋王と藤原四子は対立は次第に激化していきました。
長屋王の変のきっかけ
なんとかバランスを保っていた長屋王と藤原四子でしたが聖武天皇と光明子の子である基王が亡くなったことをきっかけに一気に事態が動きます。
聖武天皇のもう一人の妃が安積親王を出産したのです。藤原四子にとってはかなりまずい状況です。
藤原氏の娘が次期天皇を産まなければ外戚という地位を失うことになります。藤原氏にとっては外戚という地位を失えば権力を失うと同義です。
焦った藤原四子は光明子を皇后に格上げしようとします。皇后は天皇の妃の中でもっとも位が高く天皇不在時は代わりに政務を執り行うこともできます。それゆえ皇后は血筋も大切とされており藤原氏のような人臣が皇后になるという前例はなかったのです。
やはり、長屋王は光明子の皇后昇格に反対します。長屋王にとっては自身が手を下さずとも勝手に藤原氏が没落するのですから願ってもいないチャンスでした。
長屋王の変
729年
長屋王優勢にことが進む中ある噂が聖武天皇の耳に入ります。
「長屋王が謀反を企てている」
長屋王が皇位を狙っているという噂は以前より流れていたようです。
長屋王は自身のように尊い血筋の者が天皇になるべきだと考えていたのでしょうか。
本当か嘘かはわかりませんが藤原四子はこの噂を利用しました。
「長屋王は信用できない、基王が亡くなったのは長屋王が呪いをかけたからだ」と天皇に密告したのです。
天皇は長屋王を捕えるよう命令を出します。兵は藤原四子の三男の宇合が指揮し長屋王の屋敷を包囲しました。
逃げ場を失った長屋王は妻、息子ともども自害に追い込まれ長屋王の血筋はここで途絶えてしまいます。
日本史上初の人臣出身の皇后
こうして、政敵である長屋王を排除した藤原四子は光明子を皇后へ昇格させることに成功。光明子は人臣で初の皇后になり次期天皇である阿倍内親王(孝謙天皇)を出産しました。
藤原四子の死
長屋王を排除し政権を手にした藤原四子は兄弟揃って公卿に出世しました。これまでは一族につき一人という習わしがありましたが藤原氏に逆らえる存在はいません。藤原四子はそれぞれ家を分けるという裏技を使いました。もう、政界は藤原氏の天下です。
藤原四子の南家・北家・式家・京家
藤原四子はそれぞれ南家・北家・式家・京家に家を分け公卿に出世。藤原武智麻呂政権(藤四子体制)を確立します。
政敵も排除しているので藤原四子の政権は安定しており財政の立て直しや治安維持につとめました。
天然痘の流行
順風満帆な藤原武智麻呂政権でしたが九州から流行した天然痘により4兄弟全員がこの世を去ります。
栄華を築いた藤原氏でしたが藤原四子の死によりしばらく表舞台から降りることを余儀なくされました。
藤原と橘
藤原四子亡き後、政治の主導権を握ったのは皇族出身の橘諸兄でした。
橘諸兄の母の橘三千代(県犬養橘三千代)は橘諸兄を産んだ後に藤原不比等と再婚しています。そして、父親は敏達天皇の子孫です。同母である光明子や有力権力者とも深い繋がりがあった橘諸兄は順調に出世を重ね最終的には左大臣に叙され正一位の位に任ぜられます。
そんな橘諸兄の新政治体制には吉備真備と玄昉という人物を起用しました。
吉備真備と玄方は遣唐使として派遣されており唐で研鑽を積んだ人物でした。
しかし、この新たな政治体制に不満を持つものがいました。藤原宇合の子で藤原広嗣です。
藤原広嗣は藤原氏が実権を握っていた頃に一族を誹謗したという理由で九州の太宰府に左遷されていました。自分は九州の太宰府で中央から遠ざけられているのにぽっとでの身分の低い者が重用されていることに不満をもったのです。
藤原広嗣の乱
藤原広嗣は740年に太宰府から吉備真備や玄昉の排除を求める上奏文を朝廷に送ると同時に九州で挙兵しました。
広嗣は九州全土の統帥権を持っていたため現地の兵や隼人も従え朝廷軍を待ち構えました。
広嗣の反乱に対し朝廷は大野東人を派遣します。大野東人の進軍は広嗣の想定より早かった上に「逆臣の広嗣を討った物には官位を与える」という宣伝工作を展開します。
その結果、両軍が対峙した際に広嗣軍からの離脱者が続出することになり戦いは朝廷軍の優位に進みました。
そして反乱は鎮圧され広嗣は捕えられ処刑されました。
橘諸兄と藤原仲麻呂
政権は依然として橘諸兄が主導権を握っていました。しかし、749年に聖武天皇が娘の孝謙天皇に譲位すると状況は一変します。
聖武天皇を献身的に支えた橘諸兄は聖武天皇からの信頼も厚く二人の関係は良好な者でした。しかし、孝謙天皇との間にはそれほどの信頼関係は築けなかったようです。
孝謙天皇の母は藤原不比等の娘であり人臣ではじめて皇后になった光明皇后です。孝謙天皇が即位すると光明皇后が次第に影響力を強めていきました。
そして、光明皇后を後ろ盾として藤原四子の武智麻呂の子である仲麻呂が政治の中心に躍り出てきます。
藤原仲麻呂は酒の席に置いて聖武上皇に対し「無礼な発言をした、謀反の疑いがある」などとありもしないことを広めます。
結果的に光明皇后の後ろ盾を得た仲麻呂の発言を無視できなくなり橘諸兄は政治の実権を奪われ隠居に追い込まれました。
橘奈良麻呂の乱
756年
橘諸兄を政界から追放した藤原仲麻呂は光明皇后の後ろ盾のもと政治の実権を握りました。この頃には、聖武太上天王も亡くなっており藤原氏が再び台頭してきます。
そんな藤原氏の台頭をよく思わない反藤原氏勢力が橘諸兄の子で橘奈良麻呂を担ぎ仲麻呂を倒そうと計画します。
きっかけは聖武太上天皇の遺言でした。
聖武太上天皇は亡くなる際、孝謙天皇の次の天皇は道祖王を指名していました。道祖王は新田部親王の子で天武天皇の孫にあたります。
すなわち、藤原血を引いていない人物ということになります。藤原氏との関係も薄くせっかく政治の実権を手に入れた藤原氏にとっては面白くない人選です。
そこで、仲麻呂は光明皇后・孝謙天皇と謀って道祖王を廃太子にします。理由は聖武太上天皇の喪中に女官と密通したというものでした。
道祖王を排除した藤原氏は皇太子に大炊王を推薦します。大炊王は藤原血こそ引いていませんでしたが仲麻呂の家に住み身内同然の人物でした。
このやりたい放題の藤原氏のやり方に橘奈良麻呂を中心とした反藤原勢力は仲麻呂を倒す計画を立てますが失敗。関係者も含めると数百名が処刑・流罪に処されることになります。
橘奈良麻呂の乱はやりたい放題の藤原氏を排除しようとしましたが結果的に藤原氏に逆らう者を炙り出し藤原氏の権力をより強固にする結果となってしまいました。
聖武天皇の実績
聖武天皇は仏教を厚く信奉しており仏教により国を守るという鎮護国家を掲げていました。しかし、聖武天皇の治世では流行病、飢饉、災害さらに反乱と決して安定していたとは言えませんでした。
聖武天皇はこれらの障害にたいしてどのように対処していったのでしょうか?その実績を見ていきましょう。
放浪と遷都
聖武天皇は従兄弟でもあった藤原広嗣が反乱を起こした後、5年に渡り各地を放浪し始めます。伊勢(三重)から美濃(岐阜)、近江(滋賀)へ抜け山城国(京都)そして、恭仁(京都)です。
恭仁へ辿り着いた聖武天皇はそのまま、恭仁に都を移すと宣言し恭仁京を作り始めます。災がおこると都の場所が悪いと考えた聖武天皇は近江の紫香楽、難波と遷都を繰り返し最終的には元の平城京へ戻ってきます。
この度重なる遷都の最中に寺を建てる、大仏を建てると聖武天皇は命令をだします。さすがに国民の我慢も限界を迎えたのか付近の山ではたびたび山火事が起こるようになりました。
国分寺・国分尼寺建立の詔
都を移しても安定しない治世に聖武天皇は仏教の力が必要だと考えました。そのため、都(平城京)には東大寺を、全国(60ヶ所)には国分寺、国分尼寺をそれぞれ作るように詔をだします。
全国に国分寺・国分尼寺を建てる壮大な事業計画は当然莫大な費用が必要でした。聖武天皇はこの事業を国民の税金で賄います。飢饉や流行病で疲弊した国民にとっては過酷なものだったでしょう。さらにお金を出させるだけでなく寺院を建てる労働も強いるのです。
仏様はありがたい存在ですが生きるだけで精一杯な国民にとっては負担も大きかったでしょう。
大仏建立の詔
遷都、お寺を作っても安定しなかった国に聖武天皇はまだ仏教の力が足りないと考えます。そこで仏様の力をより強くするために東大寺に盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)を作るように命令します。
この盧舎那仏坐像は「奈良の大仏さん」と親しまれるようになりたくさんの観光客を魅了しています。
この大仏は行基という高僧が協力してくれました。国民からの信頼厚い行基の協力があってもこの一大プロジェクトの完成には7年もかかり752年にようやく開眼供養会(仏の目を描くこと)にて完成します。
この時には聖武天皇は娘の孝謙天皇に位を譲り太上天皇となっていました。
墾田永年私財法による公地公民の完全崩壊
日本は飛鳥時代の推古天皇の時代に聖徳太子により律令制度が進められてきました。天智天皇、桓武天皇の頃から本格的に運用され出し土地や国民は天皇のものという考え方のもとに政策が立てられました。
しかし、聖武天皇の時代は国は乱れ思い税収に耐えかねた国民が土地を捨て税の徴収が思うようにいかなくなります。そこで聖武天皇はすべて国の土地という考え方を改めます。
はじめに723年、三世一身の法という新しく開墾した土地は3代に限り私有を認めるという法を打ち出しました。三世一身の法は始めのうちは機能しましたが3代目になると土地を返さなくてはならないため逃げ出す国民が出てきます。税の徴収もやはり思うようにいかなくなりました。
そこで、743年に墾田永年私財法という新しく開墾した土地は永久に私有を認めても良いという法をつくりました。墾田永年私財法は公地公民から完全に逸脱した法です。聖武天皇はこれまでの伝統を崩してまで税の徴収をおこなわなくてはならなくなっていました。原因は度重なる遷都や寺、仏像の建設費用です。
この、伝統を曲げてまで打ち出した墾田永年私財法が機能したかというとそうではありませんでした。限定的に効果を発揮しますが墾田永年私財法でもっとも得したのはお金持ちの貴族や寺社のお坊さんでした。
貴族やお坊さんは逃げ出した農民を使い自分たちの土地を新しく開墾させたのです。このような国の土地ではなく個人または朝廷の支配外の土地のことを荘園と呼びます。
荘園の増加に伴い朝廷の力は削がれていき貴族や寺社の力が増加する結果になってしまいました。
日本三大悪人の一人”道鏡”の登場
話を橘奈良麻呂の乱の後に戻します。
橘奈良麻呂の乱で権力を復活させた藤原氏は孝謙天皇の次の天皇に大炊王(藤原氏の身内同然の皇族)を据えることに成功しました。
そして、758年に孝謙天皇は大炊王に皇位を譲ります。
大炊王は淳仁天皇として即位。本来、天皇になれるはずのなかった淳仁天皇は天皇に推薦してくれた藤原仲麻呂に感謝し恵美押勝という名を授けます。
その淳仁天皇ですが本来は天皇になるはずではなかったので政治のことはあまりわからず藤原仲麻呂改め恵美押勝のサポートを受けながら政治をおこないました。
二人の関係は良好で二人三脚で政治をおこなっていました。
しかし、光明皇后が亡くなることにより状況が一変します。
光明皇后が亡くなったショックで孝謙太上天皇は体調を崩してしまいました。そこに登場したのが道鏡というお坊さんでした。
道鏡は仏様に孝謙太上天皇の体調の回復を祈ります。その効果があったのか孝謙太上天皇は体調を戻されたのです。
体調を戻された孝謙太上天皇は道鏡に感謝し信頼をおくようになりました。
そして、政治のことは道鏡と相談して決めると言い始めたのです。
ぽっとでのお坊さんに政治に口出しされることを嫌った恵美押勝は孝謙太上天皇と対立するようになります。
淳仁天皇・恵美押勝VS孝謙太上天皇・道鏡の争いが始まります。
恵美押勝の乱
764年
道鏡を政界に引き込んだ孝謙太上天皇は対立した淳仁天皇と恵美押勝の存在を排除するきっかけを探していました。
そこに、道鏡に不満を持つ恵美押勝が謀反を起こそうとしていると噂がたったのです。
実際に恵美押勝は道鏡の排除を計画していました。しかし、孝謙太上天皇の行動が早く戦の結果は孝謙太上天皇と道鏡の勝ちに終わります。
この、お坊さんの道鏡を政治に参画させるか否かの争いが『恵美押勝の乱』です。
敗北した恵美押勝は戦死。恵美押勝という後ろ盾を失った淳仁天皇は天皇の資格を剥奪され淡路へ島流しにされました。
称徳天皇と道鏡
勝利した孝謙太上天皇は引退した天皇が再び皇位に就く重祚をおこない称徳天皇として即位します。
道鏡は称徳天皇の寵愛を引き続き受けることでお坊さんでは異例の大出世をし765年に太政大臣禅師として天皇に次ぐ政治の位を与えられると法王という宗教界の最高位まで与えられました。
宇佐八幡宮信託事件
しかし、称徳天皇による強引な道鏡の出世は周囲の反発を招きました。つまり、称徳天皇・道鏡とその他の有力貴族、権力者という構図が出来上がったのです。
さらに道鏡は政界、宗教界の最高位についただけでは飽き足らず皇位をも手に入れようとします。
769年
宇佐八幡宮(大分県)で「道鏡を皇位につければ天下は太平になる」虚偽の信託をださせました。
この信託に称徳天皇は喜びますが周囲は大反発します。もう一度、神意を確かめるべきだという周囲の意見を無視することができなかった称徳天皇は側近の和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣し神意を確かめるように命じました。
神意を確かめた和気清麻呂は「天の日嗣は必ず皇緒を立てよ。无道の人は早に掃い除くべし」との神意が下ったと宣言しました。
つまり、「次の天皇は必ず皇族から出しなさい。そして、道鏡は早く追放しなさい」と神のお告げがあったと報告したのです。この和気清麻呂の報告に称徳天皇は激怒しました。
称徳天皇は和気清麻呂が「偽りの報告をした」として流罪に処し道鏡は和気清麻呂を暗殺しようとしました。和気清麻呂の暗殺計画は失敗に終わります。
そして、次期天皇を決める前に称徳天皇は崩御。道鏡は失脚し政界から追放されました。一時期は政界、宗教界の最高位についた道鏡ですが最後は庶民として葬られました。
一方、流罪に処された和気清麻呂は称徳天皇の次に天皇になる光仁天皇に罪を許され政界に復帰し最終的には従三位まで出世しました。
陰謀渦巻く光仁天皇即位
称徳天皇が次期天皇を決めずに崩御されました。そこで次期天皇を決める権力争いがおこなわれることになります。
この次期天皇を決める争いには藤原氏の陰謀が張り巡らされていました。
称徳天皇と道鏡により政治の実権から遠ざけられた藤原氏にとって次期天皇はなんとしても藤原氏の息のかかった人物にしたかったのです。
白壁王・藤原百川VS文室浄三・吉備真備
恵美押勝の乱で権力から遠かった藤原家でしたが藤原式家の藤原百川が同じ式家の良継と藤原北家の永手と共謀し白壁王の擁立を計画します。白壁王は天智天皇に連なる人物です。
それに反対したのが橘諸兄により引き立てられ右大臣にまで登っていた吉備真備でした。
吉備真備は天武天皇の孫である文室浄三(本人は固辞していた)を擁立し藤原氏に対抗します。
藤原百川ら藤原氏にとってこの皇位継承争いは没落した藤原家が再び政治の実権を握れるかどうかの重要な局面で失敗は許されません。吉備真備にとっても専横極めた藤原氏に再び権力を握らせるわけにはいきませんでした。
この権力争いは藤原百川が称徳天皇の遺言を偽作することにより白壁王・藤原百川の勝利として決着しました。
そして、770年白壁王は光仁天皇として即位します。これにより壬申の乱以降、天武天皇系だった皇統は天智天皇系に戻ることになります。
百川の第二の陰謀〜百川が本当に天皇にしたかった人物〜
藤原百川の思惑通りに白壁王が光仁天皇として即位することになりました。この後の光仁天皇の後継争いで藤原百川の第二の陰謀による悲劇が訪れます。
百川の陰謀を話す前に光仁天皇即位の裏を説明します。
実は、藤原百川らは聖武天皇の孫にあたる他戸親王(天武天皇系)が将来皇位を継ぐことを前提に白壁王を擁立していました。
他戸親王の母は聖武天皇の娘です。つまり、母が天武天皇系で父である光仁天皇は天智天皇系と他戸新王は血統に恵まれた人物でした。
血統を重要視するこの時代で他戸親王は皇位継承の資格を十分に有しています。
吉備真備との権力争いに勝つために他戸親王を擁立することは有利に働いたはずです。
しかし、まだ他戸親王が幼いため中継ぎとして父である白壁王を擁立していたという背景がありました。
井上内親王と他戸親王の悲劇
つまり、他戸親王が天皇になるために白壁王が光仁天皇として即位したのでから光仁天皇の次の天皇は他戸親王ということになります。
しかし、百川は光仁天皇の息子で以前より交流のあった山部親王(後の桓武天皇)を次期天皇にしようと企んでいました。
山部親王は母は渡来系であり皇后である井上内親王と比べ身分が低いため次期天皇になれる人物ではありませんでした。
本来、天皇になれる人物でない山部親王を天皇にすることができれば百川率いる藤原式家は政治に大きな影響力を持つことができます。
百川は他戸親王を排除するため井上内親王を罠に嵌めます。井上内親王が光仁天皇を呪殺しようとしたとして廃后させます。母が天皇を呪殺しようとし廃后となったため他戸親王も廃太子となり二人は幽閉され謎の死を遂げます。
この結果を見ると他戸親王と井上内親王は百川の権力争いに巻き込まれた挙句に百川の息のかかった山部親王の即位の邪魔になれば消されるという悲劇の親子と見ることができます。
実際、百川の思惑通りに光仁天皇の後は山部親王が桓武天皇として即位することになり藤原式家は政治の実権を握ることに成功しました。
平安時代へ
藤原百川のサポートを受け即位した桓武天皇は母の身分の低さや天災、疫病に苦しめられ晩年は自身の即位に伴い排除した他戸親王の祟りに苦しめられつつも千年の都と呼ばれる平安京へ遷都し400年続いた平安時代が幕を開けるのです。
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