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赤坂城の戦い

護良親王が京都の比叡山、後醍醐天皇が奈良の笠置山で幕府軍と戦っている同じ時期に後醍醐天皇の味方として挙兵した人物がいます。
鎌倉幕府滅亡の立役者の一人である楠木正成です。

楠木正成は後醍醐天皇が奈良へ逃げ延びた時に配下に加えた武将で河内(大阪)の赤坂城で挙兵しました。
後醍醐天皇が笠置山の戦いで奮闘している時に赤坂での挙兵に六波羅軍は鎌倉に使者を送り援軍を要請しました。
この鎌倉幕府はこの要請を受け足利尊氏含む大軍を笠置山へ送ります。

この鎌倉からの援軍の標的は笠置山の後醍醐天皇でした。しかし、援軍が到着する前に後醍醐天皇は敗北し六波羅軍に捕まり平等院へ送られることになりました。
そこで、標的を赤坂で挙兵した楠木正成に変更したのです。

こうして、楠木正成と鎌倉から送られてきた大軍が戦ったのが赤坂城の戦いです。
南北朝時代まで後醍醐天皇軍としてかずかずの功績を上げる楠木正成の最初の戦いが始まりました。

鎌倉幕府から援軍として送られた幕府軍は赤坂城に到着しました。
幕府軍は赤坂城の様を見てこの戦は楽勝だと楠木正成を侮ります。何故ならこの赤坂城は、急ごしらえの城のため質素な作りをしていました。
山に柵を立てその中に櫓が並んでいるだけだったのです。

幕府軍は簡単に赤坂城を落とせるだろうと突撃していきます。
対する楠木正成は城に立て籠もり土で作った狭間から矢を放って応戦します。
予想外の損害を受けた幕府軍は一時退却し陣を張り(陣形を整え戦う準備をすること)持久戦に持ち込もうとしました。

しかし、準備を整えている最中に楠木軍に奇襲され幕府軍は混乱しさらに後方に撤退させられることになりました。
後方で体制を整え再び赤坂城を攻めようとする幕府軍でしたが赤坂城は不気味なほど静かでした。
幕府軍は近づけば再び矢が飛んでくるだろうと軍を分け包囲しながら慎重に城に近づきます。
しかし、どんなに城に近づいても矢が放てることはありませんでした。そして、幕府軍が柵を乗り越えようと手をかけると柵がいっきに倒されてしまいます。

柵が倒れたのも楠木正成の作戦でした。この時、城の柵は内と外の二重に張られており幕府軍が近づいた時に倒すために仕掛けられた罠だったのです。
この罠は見事にハマり柵に登ろうとした幕府軍は討死、残った兵にも石や大木を投げて損害を与えました。
その後も熱湯を浴びせるなどセオリーから外れた戦いに翻弄された幕府軍は苦戦を強いられます。

思いがけない損害を被った幕府軍は戦法を変え兵糧攻めに持ち込むのです。
急ごしらえの赤坂城には食料の備蓄は少なく兵糧攻めは有効でした。

流石の楠木正成も兵糧攻めには対抗できませんでした。そこで、城の中に大きな穴を掘りその中に戦でできた死体を入れ城ごと火を放ちます。
幕府軍は城に火が上がると楠木正成は自害したと考え城に突撃します。

城の中に到着した幕府軍が見た者は穴の中で燃え盛る死体の山です。きっと楠木正成もこの穴の中で焼け死んだのだろうと考え城から撤退しました。
この時、楠木正成は燃え盛る城のどさくさに紛れて退却しておりこの後1年半近く姿を消しました。

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