**後醍醐天皇の隠岐脱出(おきだっしゅつ)**とは、
元弘の変(げんこうのへん/1331〜1333年) のさなか、
隠岐島(現在の島根県隠岐の島町)へ流罪となった 後醍醐天皇 が、
そこでの牢獄生活を脱し、
倒幕の最終局面を自ら動かすために再び立ち上がった出来事です。
この脱出劇は、
鎌倉幕府打倒〜幕府滅亡(1333年) への大きな転機となった
日本史屈指のドラマチックな事件として知られています。
隠岐脱出のポイントがすぐわかる
- 起きた年:1333年
- 時代:鎌倉時代末期
- 場所:隠岐島(現在の島根県隠岐の島町)
- 主役:後醍醐天皇
- 内容:流罪から脱出して再び倒幕軍と合流
- 歴史的意味:倒幕の流れを決定的に加速させ幕府滅亡へつながる
後醍醐天皇の隠岐流罪とは?
1331年、
後醍醐天皇は 元弘の変 で倒幕を図りましたが失敗し、
幕府軍によって捕らえられます。
その結果、後醍醐天皇は
隠岐島(おきのしま)へ流罪となりました。
隠岐島は、
海に囲まれた隔絶した場所で、
反乱を起こした者を二度と政治の中心に戻さないための
典型的な流罪地とされていました。
なぜ後醍醐天皇は隠岐から脱出したのか?
隠岐での生活は厳しく、
政治の中心から完全に切り離されていました。
しかし、国内の倒幕勢力は依然として活動を続け、
特に 楠木正成・護良親王・新田義貞 らが奮戦していました。
そんな中、
「倒幕の決定的な勝利をつかむには、
天皇自身の存在が不可欠だ」
という強い思いが後醍醐天皇の心を突き動かし、
隠岐脱出への壮絶な行動が始まります。
後醍醐天皇の隠岐脱出(逃走)の流れ
① 脱出の準備と決意
隠岐に流された後醍醐天皇は、
幕府軍の監視を掻い潜るために、
脱出計画を練り続けました。
当時の隠岐は、
海と自然の障壁が多く、一般の脱出はほぼ不可能とされていましたが、
天皇は絶望せず、周囲の協力を集めながら
綿密な計画を進めました。
② 密かに舟を手配し脱出を決行
準備が整うと、天皇は夜陰に紛れて
密かに舟を用意して隠岐を脱出します。
この脱出は、
監視していた幕府側にも気づかれないように行われ、
成功すること自体が奇跡的な逃走劇でした。
③ 本州への帰還と倒幕軍との再合流
隠岐を脱出した後醍醐天皇は、
無事に 本州へ上陸し、倒幕軍と再び合流しました。
これによって、倒幕軍の士気は一気に高まり、
鎌倉幕府を倒す流れは 急速に加速していきます。
隠岐脱出がもたらした歴史的な意味
① 倒幕運動が“天皇中心”に戻った
天皇が再び倒幕勢力と合流したことで、
倒幕運動は
「武士だけの戦い」ではなく、
天皇を中心とした政治的戦いへと大きく変わりました。
この変化は、
単なる戦局の変化を超えた
歴史の根幹を揺るがす転換点でした。
② 鎌倉幕府滅亡への決定的な一歩
後醍醐天皇の隠岐脱出は、
倒幕軍にとって大きな 戦略的勝利 となりました。
倒幕軍は天皇中心の旗印を取り戻し、
その後に起きる
- 六波羅探題攻略
- 執権北条氏の追討
- 鎌倉幕府の最終決戦
へと続く流れを作り上げました。
覚えておきたいポイント
- 隠岐流罪:元弘の変で後醍醐天皇が隠岐島へ流されたこと
- 脱出:海を越えて幕府の監視を逃れ、成功した逃走劇
- 再合流:倒幕軍に戻り、戦局を決定的に変えた
よくある疑問(Q&A)
Q1. 隠岐はどこにあるの?
隠岐島は、
現在の 島根県隠岐の島町一帯の島々 です。
日本海に浮かぶ離島で、流罪者を隔離する目的で使われました。
Q2. なぜ脱出がそんなに難しかったの?
隠岐は、
- 島である
- 海が荒れやすい
- 幕府軍の監視がある
という三重の困難があり、
脱出自体が極めて稀で困難な行為でした。
Q3. どうやって脱出したのか?
正式な史料は残りませんが、
天皇は密かに舟を準備し、
夜陰に紛れて海を渡ったとされており、
その成功こそが「奇跡の脱出」と言われるゆえんです。
一問一答で覚える「隠岐脱出」まとめ
✔ 元弘の変の敗北で後醍醐天皇は 隠岐へ流罪
✔ そこで 脱出計画を練る
✔ 監視を逃れて 密かに舟で本州へ逃げ帰る
✔ 倒幕軍と再合流し、 鎌倉幕府滅亡への流れを決定づけた
まとめ|隠岐脱出は「倒幕の決定打」
後醍醐天皇の隠岐脱出は、
ただの逃走劇ではありません。
- 幕府の監視を逃れた 奇跡の脱出
- 倒幕運動の中心を 天皇に取り戻した戦略的勝利
- 鎌倉幕府滅亡へ向かう 歴史の流れを加速させた転換点
この出来事を知ることで、
なぜ元弘の変から鎌倉幕府滅亡、そして南北朝時代へ進んだのか
という日本史最大級の転換点が
ぐっとわかりやすくなります。

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