正中の変(1324年)の8年後、鎌倉では後醍醐天皇がまた幕府討伐の準備をしていると噂になります。
その噂は本当で後醍醐天皇は幕府討伐諦めてはいませんでした。
そこで鎌倉幕府は前回の対応は緩いとし今回は後醍醐天皇を流罪に息子の護良親王は死罪にすることにします。
後醍醐天皇の流罪を知らせる幕府の使者が延暦寺にやってきます。
幕府の使者は延暦寺に後醍醐天皇の流罪が決定した。さらに護良親王には死罪が下されたと告げました。
幕府の決定を知った護良親王は後醍醐天皇に奈良へ逃げるように使者を送ります。
後醍醐天皇は護良親王のアドバイスに従い奈良へ出発します。
この時、護良親王は後醍醐天皇に京都を脱出する際は身代わりを比叡山に送ることを勧めます。
後醍醐天皇は護良親王のアドバイスを聞き入れ花山院師賢を比叡山に送り奈良へ向かいました。
後醍醐天皇は奈良に着くと御所に適した場所を探し最終的に笠置山に身を隠すことにしました。
後醍醐天皇が京都から脱出した後も護良親王は比叡山に残り六波羅軍と唐崎の浜で戦います。
比叡山の僧兵の協力のもと唐崎の浜の戦いに一度は勝利しましたが戦況が悪化すると読むと姿を消しました。
一方、笠置山に逃げた後醍醐天皇にも六波羅軍が攻めてきます。笠置山の戦いに後醍醐天皇は善戦しましたが六波羅軍に敗れ捕えられ平等院へ幽閉されます。
この頃、京都では光厳天皇が践祚しており平等院から六波羅探題に送られた後醍醐天皇は光厳天皇に三種の神器を渡した後に島流しになりました。
そして、後醍醐天皇、護良親王に続くもう一人の鎌倉幕府討伐の立役者の楠木正成が登場します。
楠木正成は後醍醐天皇が笠置山の戦いに敗れる前に配下に加えた武将です。
楠木正成は河内の赤坂城(大阪)で挙兵し赤坂城の戦いが始まります。
楠木正成も善戦しますが兵力差に加え兵糧攻めにあい敗北。敗北後は楠木正成も姿を消しました。
こうして、護良親王の唐崎の浜の戦い、後醍醐天皇の笠置山の戦い、楠木正成の赤坂城の戦いは幕府の勝利という形で幕を下ろします。
この一連の流れが元弘の変です。
赤坂城の戦い
一方、楠木正成は赤坂城で挙兵します。
赤坂城の戦いで楠木正成も善戦しますが敗北し姿を隠しました。
勝利した幕府でしたが後醍醐天皇の勢力が幕府に対し善戦したこともあり反幕府への機運が高まるきっかけになりました。
後醍醐天皇が隠岐に流された後も反幕府運動は各地でおこなわれます。
幕府崩壊もいよいよ目前となってしまいます。
コメント