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第10代 崇神天皇

欠史八代の天皇の後、天皇に即位したのはミマイキリこと崇神天皇であった。

崇神天皇

在位期間:紀元前97年〜前30年(67年)

記紀に事実が詳しくするされ実在の可能性があるとされる天皇。

崇神天皇は『はつくにしらすすめらみこと』の美称で呼ばれている。
これは国を初めて治めたといういみであり、初代神武天皇も同じ美称で呼ばれていた。

すなわち記紀では国を初めて治めた天皇が二人存在していることになる。

もっとも全て同じと言うわけではなく『はつくにしらすすめらみこと』のくにの文字が神武天皇と崇神天皇では異なっている。

神武天皇:くに=天下
崇神天皇:くに=国

となっており歴史学者の間では『天下』は『国』より広く抽象的な意味合いで使われる概念である。このことから国を初めて治めた天皇は崇神天皇であったという説もある。

目次

崇神天皇の実績

記紀には崇神天皇の実績が記されている。

・諸国に将軍を派遣し地方を平定
・人口調査をして租税を定めた
・三輪山のオオモノヌシを祀り民を災害から救った
・謀反を企てた第八代天皇の皇子『武埴安彦命』を討ち取った

このように記紀には記されている。具体的な内容で実在した可能性が高いとされる一方で120歳まで生きたとされるなど実在が確実視されているわけではない。

崇神天皇のエピソード

ここからは崇神天皇のエピソードを紹介していきます。

三輪山の祟り

ミマキイリヒコこと崇神天皇の治める大和で疫病が蔓延する。多くの民が病に倒れていく姿に崇神天皇は心を痛めていた。

崇神天皇が神意を確かめるため、清められた床に入るとオオモノヌシが夢の中に現れ「疫病は私の祟りだ。オオタタネコに私を祀らせれば疫病は鎮まるだろう」と告げる。

崇神天皇はすぐにオオタタネコのことを調べさせるとオオタタネコはオオモノヌシの子孫であることが判明。崇神天皇は居場所も突き止め河内(大阪)の美努の村にいたオオタタネコを呼び寄せることにします。

呼び寄せたオオタタネコに三輪山の神主を命じるとオオモノヌシを山頂へ祀らせます。すると、疫病は鎮まり国は以前のような平安を取り戻すことができたのです。

諸国平定と反乱

疫病が鎮まり国が安定すると崇神天皇はオオビコ、タケヌナカワワケ、ヒコイマス、キビツヒコの四将軍(四道将軍)を各地へ派遣し諸国平定を命じる。

しかし、平定の最中に大和でオオビコの異母兄タケハニヤスヒコ(第8代天皇の皇子)が反乱を起こします。この時、オオビコは天皇の危機を告げる少女の歌を聞き急いで引き返すことにしました。崇神天皇も鎮圧軍を派遣しタケハニヤスヒコの反乱を鎮めることに成功します。

そして、四道将軍の諸国平定も成功し大和政権は西国から東北一帯まで勢力を拡大することに成功。

平定した諸国の人口を調べ租税を開始したのです。

四道将軍

・オオビコ

崇神天皇の叔父。北陸道へ派遣される。大和で反乱が起こると鎮圧に成功。

・タケヌナカワワケ

オオビコの子。東海道へ派遣される。

・ヒコイマス

丹波に派遣される。

・キビツヒコ

吉備へ派遣される。

大和政権の拡大

四道将軍の地方平定により支配域の拡大に成功し、税の徴収を開始することにより崇神天皇の治世では勢力が大きく拡大することになります。

人々の暮らしも豊かになり安定した世を作り出すことになっため人々は崇神天皇を『はつくにしらすすめらみこと』と呼ぶようになったとされています。

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