天皇中心とした政治体制を構築するための組織、制度の改革です。第96代後醍醐天皇が取り組みました。
建武の新政は1334年〜1336年のわずか3年で崩壊してしまいます。
崩壊の原因は鎌倉時代から大きな影響力を持つようになっていた武士を冷遇し貴族を優遇したため武士の支持を失い各地で反発運動がおきたためと言われています。
建武の新政による政治組織図
後醍醐天皇は政治組織の頂点に天皇を置き京都(中央)と地方に分けて支配を強化しました。
さらに、律令制の崩壊により形骸化していた八省の人事を信用のおける人物に与えることにより武士勢力や貴族などの有力者を牽制しました。
親政のための構造改革
後醍醐天皇は親政を敷くために天皇を頂点として政治を行う体制を整えます。
後醍醐天皇は天皇の権限を高めます。
藤原家のような摂政、関白は天皇を脅かす存在となり得るため廃止、幕府が誕生する前に天皇以上の権力を手にしていた上皇や法皇の存在を消すために院を廃止しました。
摂政、関白、院を廃止した後醍醐天皇はさらに特定の家に力を持たせることを脅威と考えます。
中央政治はだいだい世襲制でした。そこで、特定の家が中央政治の官職を継ぐ『官司請負制』を改正します。
官司請負制の改正により形骸化していた八省は後醍醐天皇の息のかかった貴族が任命されることになり各省を後醍醐天皇が掌握できる形にしました。
建武の新政の特徴
後醍醐天皇が目指したのは延喜天暦の治でした。
延喜天暦の治は平安中期の天皇である醍醐天皇、村上天皇が治天の君としておこなった天皇自ら政治のことです。
- 綸旨が全てを決める(天皇の命令文書)
- 鎌倉幕府の否定
- 中央、地方の統治体制の強化
綸旨
建武の新政下では土地の所有や裁判は全て天皇が決めることになりました。
天皇が下す決定を示すものが綸旨と呼ばれる天皇の命令文章のことです。
実際は全てを後醍醐天皇一人が担うことはできず天皇の意を汲む記録所や雜訴決断所に一部の認定権を与えることになります。
幕府の否定
後醍醐天皇は組織改革を進める一方これまで幕府がおこなっていた政策の否定をはじめます。
- 幕府が擁立した光厳天皇の廃位
- 年号を光厳天皇の正慶から後醍醐天皇の時に使用していた元弘に変更
- 幕府に奪われていた土地の返還
- 幕府がおこなった裁判のやり直し
後醍醐天皇による急激な改革は周囲に混乱をもたらしました。
特に土地の返還が大きな問題になりました。
当時の武士たちの土地支配は御成敗式目により決められていました。
その御成敗式目の第八条には御家人が20年間支配した土地は元の持ち主に返す必要はないと決められていたのです。
これまで鎌倉幕府が支配を認めていた土地を今度は後醍醐天皇に認めてもらわなければ所有権を剥奪されてしまう武士が大勢現れました。
こうした土地問題によって各地から大勢の武士が後醍醐天皇のいる京都へ押しかけることになりました。押しかけた武士の中には100年前の土地の所有権を主張するものや複数人で土地を管理していた人などが現れました。
当然、後醍醐天皇だけでは対応することができなくり政治が停滞してしまいました。
土地問題による政治の停滞は武士たちの不満を高め後醍醐天皇の政治を批判する者や鎌倉幕府の方がよかったと言い出す者が現れます。
中央、地方の統治体制
中央での統治体制
記録所・雑訴決断所
幕府の否定により土地問題の訴訟が激増したことにより機能がパンクしてしまいました。そのため後醍醐天皇は土地の訴訟問題を担当する雑訴決断所を新たに設立します。
雑訴決断所の設立により記録所は寺や神社、貴族の訴訟に対応することになります。
恩賞方
鎌倉幕府討伐の功労者に恩賞を与える機関
武者所
京都を警護するための組織
地方での統治体制
重要な点は幕府討伐後に護良親王と足利尊氏が対立していることです。陸奥将軍府も鎌倉将軍府も武力を持っており小さな幕府のような存在でした。
陸奥将軍府(護良親王勢力)
関東が足利勢力優勢のため護良親王の計画のもと奥羽地方に後醍醐天皇の皇子『義良親王』と公家の『北畠顕家』を派遣しました。
北畠家は護良親王と親しく反足利尊氏勢力です。
鎌倉将軍府(足利尊氏勢力)
陸奥将軍府(護良親王派)により畿内と奥羽で挟み撃ちにされる可能性があったため足利尊氏が後醍醐天皇の皇子『成良親王』と尊氏の弟の『足利直義』を派遣しました。
国司と守護は諸国に併置されましたが貴族の国司と武士の守護で相性が悪くトラブルが絶えなかったようです。
建武の新政の崩壊
後醍醐天皇の建武の新政は急激な政治改革によって多くの混乱をもたらしました。
土地問題を解決するため雑訴決断所に決定権を与える、幕府討伐に貢献した武士に恩賞を十分に与えることができないなどの問題が積み重なり武士の不満が高まりました。
その受け皿となった足利尊氏です。
親政を理想とした後醍醐天皇の建武の新政は徐々に足利尊氏を筆頭に武士との争いにより崩壊し南北朝時代が始まるのです。
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