**久我縄手の戦い(くがなわてのたたかい)**とは、
**南北朝時代のはじまり(1336年)**に起きた合戦で、
**楠木正成(くすのき まさしげ)**が率いる 後醍醐天皇(南朝)側と、
**足利尊氏(あしかが たかうじ)**の軍が激しく衝突した戦いです。
この戦いは、
のちの 湊川の戦い へとつながる重要な前哨戦であり、
「建武の新政」から「南北朝の争い」へ移る決定的な転換点として知られています。
久我縄手の戦いのポイントがすぐわかる
- 起きた年:1336年
- 時代:南北朝時代のはじまり
- 場所:久我縄手(現在の大阪府・淀川流域とされる)
- 戦った勢力:後醍醐天皇側(楠木正成) vs 足利尊氏軍
- 結果:尊氏軍が勝利、南朝側は劣勢に
- 歴史的意味:南北朝の本格的な戦乱が始まる合図となった
久我縄手の戦いの基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出来事 | 久我縄手の戦い |
| 年 | 1336年(建武3年/延元元年) |
| 時代 | 南北朝時代初期 |
| 主な人物 | 楠木正成、足利尊氏 |
| 関連事件 | 建武の新政の崩壊、湊川の戦い |
そもそも久我縄手ってどんな場所?
久我縄手は、
現在の 大阪府北部〜淀川周辺 にあったとされる古戦場で、
京都へ向かう街道をおさえる 戦略上の要地 でした。
ここを守れなければ、
足利尊氏軍は一気に京都へ進軍できます。
つまり久我縄手は、
後醍醐天皇側にとって「最後の防波堤」 のような場所だったのです。
久我縄手の戦いが起きた背景
建武の新政と足利尊氏の離反
1333年、鎌倉幕府が滅びると、
後醍醐天皇は 建武の新政 を始めました。
しかし、
- 恩賞が行き渡らない
- 武士の不満が高まる
- 政治の進め方が貴族中心
といった問題が重なり、
次第に政権は不安定になります。
その中で、
有力武将だった 足利尊氏 が後醍醐天皇と対立し、
ついに 反旗を翻す ことになります。
久我縄手の戦いの流れ(初心者向け)
① 尊氏軍が京都へ進軍
足利尊氏は、西国で勢力を固めたのち、
大軍を率いて京都へ向かいます。
後醍醐天皇側は、
この進軍を食い止めるため、
楠木正成を中心とした軍を
久我縄手に配置しました。
② 楠木正成軍の迎撃
楠木正成は、
地の利を生かした防衛戦を展開します。
しかし尊氏軍は兵力で大きく上回り、
さらに 戦意の高さと統率力 でも優勢でした。
③ 激戦の末、南朝側が敗退
激しい戦いの末、
楠木正成軍は次第に押し込まれ、
久我縄手の戦いは尊氏軍の勝利で終わります。
この敗北によって、
後醍醐天皇側は京都防衛の要を失い、
戦局は一気に不利な方向へ傾きました。
久我縄手の戦いの歴史的な意味
① 南北朝の争いが本格化した
この戦い以降、
日本は
南朝(後醍醐天皇)と北朝(足利尊氏) に分かれ、
長い内乱の時代へ入っていきます。
久我縄手の戦いは、
その 最初の大きな軍事衝突 の一つでした。
② 楠木正成の最期へつながる道
この敗北のあと、
楠木正成は京都を離れ、
やがて 湊川の戦い で討ち死にします。
久我縄手の戦いは、
忠臣・楠木正成の最期への前哨戦でもあったのです。
③ 足利尊氏が「新しい時代の主役」に
尊氏はこの勝利をきっかけに、
京都へ入り、
やがて 室町幕府を開く道を切り開きます。
つまり久我縄手の戦いは、
鎌倉幕府滅亡後の新しい権力争いの始まりでもありました。
久我縄手の戦いの流れを一気に整理
- 1333年:鎌倉幕府滅亡
- 建武の新政が始まる
- 足利尊氏が離反
- 1336年:久我縄手の戦い
- 湊川の戦いへ → 南北朝の内乱が本格化
よくある疑問
久我縄手の戦いは何時代の戦い?
**南北朝時代のはじまり(1336年)**の戦いです。
なぜこの戦いがそんなに重要なの?
後醍醐天皇と足利尊氏の対立が、
はっきり「戦争」として表に出た最初の大きな衝突だからです。
楠木正成はこの戦いでどうなったの?
この戦いでは生き延びましたが、
この後の 湊川の戦いで戦死します。
まとめ|久我縄手の戦いは「南北朝の幕開け」
久我縄手の戦いは、
単なる一つの合戦ではありません。
- 建武の新政の理想が崩れ
- 武士の時代が本格化し
- 南北朝という 長い内乱の時代が始まった
その 出発点となった戦いです。
この戦いを知ることで、
なぜ楠木正成が「忠臣の象徴」となり、
なぜ足利尊氏が新しい時代の支配者となったのか
日本史の大きな流れが、よりはっきり見えてきます。

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