足利高氏と共に六波羅探題の援軍に派遣された名越高家は後醍醐天皇のいる船上山へ向けて出陣していました。
しかし、赤松則村の京都への攻めが予想を超えて激しかったため先に倒すことに決めます。
名越高家と足利高氏は軍を二つに分け赤松則村を攻めます。
しかし、すでに足利高氏は後醍醐天皇から北条追討の令旨を得ており、裏切るタイミングを図っている段階です。
そのため、足利高氏は赤松則村討伐に積極的ではなく実際に戦ったのは名越高家の軍勢のみでした。
名越高家の軍勢が赤松則村のいる播磨国を目指し進軍していると久我(京都)のあたりで赤松則村の潜ませていた伏兵に襲われます。
この辺りは、広い田んぼが広がっており足場の悪い場所でした。
そこに赤松の伏兵に奇襲をかけられたことで多くの兵を失ってしまいました。さらに、将である名越高家まで戦死してしまったことで戦線は崩壊し名越高家軍は撤退しました。
残った足利高氏は幕府を裏切っているため鎌倉から送られた援軍は実質消滅したことになりました。
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