1333年
隠岐島から脱出した後醍醐天皇は名和長年を配下に加え船上山へ移動しました。
そこに、隠岐島から後醍醐天皇を追ってきた佐々木清高、佐々木弾正左衛門が攻めていきます。
太平記によると後醍醐天皇の兵力は150騎。それに対し佐々木清高率いる幕府軍は3000騎でした。(✳︎太平記は誇張表現が多いですが兵力差が大きかったことは本当のようです)
後醍醐天皇を守護する名和長利はこの圧倒的な兵力差を相手に気づかせないようにするため近国の武士たちの家紋を旗に描き麓の木にくくり付け相手に兵力差を悟らせないようにしました。
船上山に着いた幕府軍は麓にくくりつけられている旗を見て大軍が待ち構えていると身構えます。
この時、各地の反幕府運動が活発化していたことが佐々木清高と佐々木弾正左衛門にそう思わせたのでしょう。
幕府軍は敵の兵力を把握できないため佐々木清高軍と佐々木弾正左衛門軍に分かれて船上山を攻める作戦を取ります。
一方、名和長年としては幕府軍に数の振りを悟らせないようにすることが重要でした。
そのため、名和長年は兵に姿を隠させて物陰から矢を放ち幕府軍を牽制させることにします。
この作戦が後醍醐天皇軍に幸運な結果をもたらします。
偶然、放った矢が敵の指揮官である佐々木弾正左衛門の右目に命中したのです。
この傷により佐々木弾正左衛門は絶命。指揮官を失った佐々木弾正左衛門の兵は戦うことを止めてしまう者も現れ戦線が崩壊してしまいました。
佐々木弾正左衛門軍が崩壊したことを知らない佐々木清高軍はそのまま、後醍醐天皇軍を正面から攻めます。
しかし、天候の悪化もあり後醍醐天皇軍に包囲されることになります。本来なら数は圧倒的に佐々木清高が有利でしたが名和長年の作戦と視界の悪さが決め手になり兵力差に気付かないまま戦線は押し込まれます。
そして、谷まで追い詰められ佐々木清高の兵は次々に転落させられ後醍醐天皇軍の勝利となりました。
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