千早城の楠木正成、船上山の後醍醐天皇、そして京都へ攻撃を仕掛ける赤松則村の抵抗により六波羅探題は鎌倉へ応援を要請します。
鎌倉は応援要請に応え足利高(尊)氏、名越高家を大将とした大軍の派遣が決定します。
✳︎この時に、足利高氏は鎌倉に妻子を人質として差し出しています。
名越高家は意気揚々と出陣したのに対し足利高氏は鎌倉幕府に不満を持っていました。
なぜなら、足利家は元を辿れば源氏にルーツを持つ一族で鎌倉幕府を開いたのも源氏の源頼朝です。
しかし、今の鎌倉幕府を取り仕切る北条氏は平家を先祖に持つ一族です。
北条氏の影響力が大きいときは刃向かうことはできませんでしたが後醍醐天皇の挙兵により状況が変わりました。
鎌倉幕府の度重なる敗北により次々に幕府を裏切る者が出現し幕府の影響力が下がりました。
これをチャンスと見た足利高氏はついに北条を裏切る時が来たと考えます。
しかし、挙兵には大義名分が必要です。足利高氏は後醍醐天皇から北条追討の令旨をもらう必要があったのです。
意気揚々と出陣した名越高家が六波羅探題に到着した頃、足利高氏はまだ三河にいました。
足利高氏としては六波羅探題に到着する前に後醍醐天皇の令旨が必要だったのです。
そして、後醍醐天皇から北条追討の令旨を得ることができた足利高氏は幕府を裏切ることを決断します。
コメント