楠木正成が河内・和泉を制圧し幕府に備えている頃に吉野(奈良)では護良親王が各地に幕府討伐の令旨を出していました。
これらの動きに危機感を感じた六波羅探題は京都へ援軍の要請を出します。
六波羅探題からの援軍要請に鎌倉から大軍が送られてきます。
京都に到着した幕府軍は軍勢を三つに分け上赤坂城、吉野城、千早城に兵を進めました。
まず初めに落とされたのは上赤坂城でした。
そして、護良親王がいる吉野城にも幕府軍が攻めてきました。
護良親王も吉野城で幕府軍に対抗するため地理に詳しい配下を準備していました。
そのため、幕府軍の損害は大きく7日経っても城を落とすことができませんでした。
苦戦する幕府軍は吉野の地理に詳しい人物にアドバイスを受けます。その人物は「正面から攻めても被害が大きくなるので険しい谷のあたりなら防御が薄くなっているはずだからそこから攻めたらどうか?」と進言しました。
幕府軍は進言に従い谷の険しい裏側に回り込み火をつけます。そして、護良親王の兵が混乱したところを攻めました。
これによって護良親王の軍は崩壊しました。
護良親王はもはやこれまでかと悟ると蔵王堂の前に兵を集め最後の宴を催しました。
しかし、護良親王の配下の一人、村上義日が護良親王を説得します。
村上義日は自分が護良親王の代わりに自害するのでその隙にお逃げくださいと言いました。
護良親王は村上義日の提案を受け入れ身につけているものを渡すと逃げる準備をします。
村上義日は護良親王の逃げる準備が整うと大声で叫びます。「私が後醍醐天皇の第二皇子、護良新王だ。これより自害の手本を見せるのでよく見よ。」
叫び終わると腹を切り刃物を加えうつ伏せに倒れました。
村上義日が身代わりになったことにより逃げ延びることが出来た護良親王は高野山へ向かいました。
こうして、幕府軍は上赤坂城に続き吉野城も落とすことに成功します。
勢いに乗っていた反幕府軍でしたが残る城は楠木正成のいる千早城を残すのみになりました。
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