鎌倉時代はいよいよ武士が活躍するようになります。平安時代に院政が確立し朝廷が権力を持つが次第に平家が台頭してきました。そして、朝廷と源氏で平家討伐した後は源氏が鎌倉幕府を開きます。
鎌倉時代は北条氏の台頭、朝廷勢力と鎌倉幕府の権力争い、モンゴルの脅威を経て足利氏の室町幕府誕生した1333年まで続きました。
覚えておきたいキーワード
- 源義経と奥州藤原氏の滅亡
- 源頼朝の鎌倉幕府
- 頼朝亡き後の鎌倉幕府
- 後鳥羽上皇と鎌倉幕府の権力争い
- 元寇
- 両統迭立の時代
- 鎌倉幕府の滅亡
鎌倉時代を年表でみる
まずは、年表から鎌倉時代の流れを知っていきましょう。
天皇 | 在位年 | 院政 | 将軍 | 執権 | 年号 | 事象 |
---|---|---|---|---|---|---|
後鳥羽天皇 | 1183~1198 | 1185 | 源頼朝が守護・地頭を設置する | |||
1189 | 奥州藤原氏の滅亡 | |||||
1192 | 後白河法皇が崩御 | |||||
源頼朝 | 源頼朝が征夷大将軍に任命される | |||||
後鳥羽上皇 | 1198 | 後鳥羽天皇が退位し院政を開始 | ||||
土御門天皇 | 1198~1210 | 土御門天皇が即位 | ||||
1199 | 源頼朝が落馬による怪我で死去 | |||||
源頼家が家督を相続する 十三人の合議制が開始される | ||||||
源頼家 | 1202 | 源頼家が征夷大将軍に任命される | ||||
1203 | 源頼家が病により危篤状態に陥る | |||||
源実朝 | 源実朝が征夷大将軍に任命される | |||||
北条時政 | 北条時政が執権に就任する | |||||
1204 | 源頼家が死去 | |||||
1205 | 畠山忠重の乱 | |||||
北条時政の追放 | ||||||
北条義時 | 北条義時が執権に就任する | |||||
1210 | 土御門天皇が退位する | |||||
順徳天皇 | 1210~1221 | 順徳天皇が即位する | ||||
1213 | 和田合戦 | |||||
1219 | 源実朝が暗殺される | |||||
九条家より三寅(頼経)が鎌倉に迎えられる | ||||||
仲恭天皇 | 1221 | 1221 | 順徳天皇が退位 | |||
仲恭天皇が即位 | ||||||
承久の乱 | ||||||
後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇が流罪に処される | ||||||
仲恭天皇が退位させられる | ||||||
後堀河天皇 | 1221~1232 | 後高倉院 | 後堀河天皇が即位する | |||
六波羅探題の設置 | ||||||
1224 | 北条義時が死去 | |||||
北条泰時 | 北条泰時が執権に任命される | |||||
1225 | 十三人の合議制が復活 | |||||
九条頼経 | 1226 | 九条(藤原)頼経が征夷大将軍に任命される | ||||
1232 | 御成敗式目の制定 | |||||
後堀河天皇が退位する | ||||||
四条天皇 | 1232~1242 | 四条天皇が即位する | ||||
北条経時 | 1242 | 北条経時が執権に任命される | ||||
藤原頼嗣 | 藤原頼嗣が征夷大将軍に任命される | |||||
四条天皇が退位 | ||||||
後嵯峨天皇 | 1242~1246 | 後嵯峨天皇が即位 | ||||
北条時頼 | 1246 | 北条時頼が執権に任命される | ||||
後嵯峨天皇が退位 | ||||||
後深草天皇 | 1246~1259 | 後深草天皇が即位 | ||||
1247 | 北条時頼が三浦氏を滅ぼす | |||||
宗尊親王 | 1252 | 宗尊親王が征夷大将軍に任命される | ||||
北条長時 | 1256 | 北条長時が執権に任命される | ||||
1259 | 後深草天皇が退位 | |||||
亀山天皇 | 1259~1274 | 亀山天皇が即位 | ||||
北条政村 | 1264 | 北条政村が執権に任命される | ||||
惟康親王 | 1266 | 惟康親王が征夷大将軍任命される | ||||
北条時宗 | 1268 | 北条時宗が執権に任命される | ||||
1271 | フビライハンが従属を求め日本に使者を送る | |||||
1274 | 亀山天皇が退位する | |||||
後宇多天皇 | 1274~1287 | 後宇多天皇が即位する | ||||
文永の役 | ||||||
1281 | 弘安の役 | |||||
北条貞時 | 1284 | 北条貞時が執権に任命される | ||||
1285 | 霜月騒動 | |||||
1287 | 後宇多天皇が退位 | |||||
伏見天皇 | 1287~1298 | 伏見天皇が即位する | ||||
1297 | 永仁の徳政令 | |||||
1298 | 伏見天皇が退位 | |||||
後伏見天皇 | 1298~1301 | 後伏見天皇が即位 | ||||
北条師時 | 1301 | 北条師時が執権任命される | ||||
後伏見天皇が退位 | ||||||
後二条天皇 | 1301~1308 | 後二条天皇が即位 | ||||
守邦親王 | 1308 | 守邦親王が征夷大将軍に任命される | ||||
後二条天皇が退位する | ||||||
花園天皇 | 1308~1318 | 花園天皇が即位する | ||||
北条宗宣 | 1311 | 北条宗宣が執権に任命される | ||||
北条煕時 | 1312 | 北条煕時が執権に任命される | ||||
北条元時 | 1315 | 北条基時が執権に任命される | ||||
北条高時 | 1316 | 北条高時が執権に任命される | ||||
1317 | 両統迭立(文保の和談) | |||||
1318 | 花園天皇が退位 | |||||
後醍醐天皇 | 1318~1339 | 後醍醐天皇が即位 | ||||
院政の終焉 | 1321 | 後醍醐天皇が親政を開始 | ||||
1324 | 正中の変 | |||||
北条貞顕 | 1326 | 北条貞顕が執権に任命される | ||||
北条守時 | 北条守時が執権に任命される | |||||
1331 | 元弘の変 | |||||
1332 | 楠木正成、護良親王が挙兵 | |||||
後醍醐天皇が北条師の追討令を出す | ||||||
1333 | 六波羅探題陥落 | |||||
※北条貞将 | 北条貞将が最後の鎌倉執権となる | |||||
鎌倉幕府滅亡 |
天皇 | 在位年 | 院政 | 将軍 | 執権 | 年号 | 事象 |
---|---|---|---|---|---|---|
後鳥羽天皇 | 1183~1198 | 1189 | 奥州藤原氏の滅亡 | |||
1192 | 後白河法皇が崩御 | |||||
源頼朝 | 源頼朝が征夷大将軍に任命される | |||||
後鳥羽上皇 | 1198 | 後鳥羽天皇が退位し院政を開始 | ||||
土御門天皇 | 1198~1210 | 土御門天皇が即位 | ||||
1199 | 源頼朝が落馬による怪我で死去 | |||||
源頼家が家督を相続する 十三人の合議制が開始される | ||||||
源頼家 | 1202 | 源頼家が征夷大将軍に任命される | ||||
1203 | 源頼家が病により危篤状態に陥る | |||||
源実朝 | 源実朝が征夷大将軍に任命される | |||||
北条時政 | 北条時政が執権に就任する | |||||
1204 | 源頼家が死去 | |||||
1205 | 畠山忠重の乱 | |||||
北条時政の追放 | ||||||
北条義時 | 北条義時が執権に就任する | |||||
1210 | 土御門天皇が退位する | |||||
順徳天皇 | 1210~1221 | 順徳天皇が即位する | ||||
1213 | 和田合戦 | |||||
1219 | 源実朝が暗殺される | |||||
九条家より三寅(頼経)が鎌倉に迎えられる | ||||||
仲恭天皇 | 1221 | 1221 | 順徳天皇が退位 | |||
仲恭天皇が即位 | ||||||
承久の乱 | ||||||
後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇が流罪に処される | ||||||
仲恭天皇が退位させられる | ||||||
後堀河天皇 | 1221~1232 | 後高倉院 | 後堀河天皇が即位する | |||
六波羅探題の設置 | ||||||
1224 | 北条義時が死去 | |||||
北条泰時 | 北条泰時が執権に任命される | |||||
1225 | 十三人の合議制が復活 | |||||
九条頼経 | 1226 | 九条(藤原)頼経が征夷大将軍に任命される | ||||
1232 | 御成敗式目の制定 | |||||
後堀河天皇が退位する | ||||||
四条天皇 | 1232~1242 | 四条天皇が即位する | ||||
北条経時 | 1242 | 北条経時が執権に任命される | ||||
藤原頼嗣 | 藤原頼嗣が征夷大将軍に任命される | |||||
四条天皇が退位 | ||||||
後嵯峨天皇 | 1242~1246 | 後嵯峨天皇が即位 | ||||
北条時頼 | 1246 | 北条時頼が執権に任命される | ||||
後嵯峨天皇が退位 | ||||||
後深草天皇 | 1246~1259 | 後深草天皇が即位 | ||||
1247 | 北条時頼が三浦氏を滅ぼす | |||||
宗尊親王 | 1252 | 宗尊親王が征夷大将軍に任命される | ||||
北条長時 | 1256 | 北条長時が執権に任命される | ||||
1259 | 後深草天皇が退位 | |||||
亀山天皇 | 1259~1274 | 亀山天皇が即位 | ||||
北条政村 | 1264 | 北条政村が執権に任命される | ||||
惟康親王 | 1266 | 惟康親王が征夷大将軍任命される | ||||
北条時宗 | 1268 | 北条時宗が執権に任命される | ||||
1271 | フビライハンが従属を求め日本に使者を送る | |||||
1274 | 亀山天皇が退位する | |||||
後宇多天皇 | 1274~1287 | 後宇多天皇が即位する | ||||
文永の役 | ||||||
1281 | 弘安の役 | |||||
北条貞時 | 1284 | 北条貞時が執権に任命される | ||||
1285 | 霜月騒動 | |||||
1287 | 後宇多天皇が退位 | |||||
伏見天皇 | 1287~1298 | 伏見天皇が即位する | ||||
1297 | 永仁の徳政令 | |||||
1298 | 伏見天皇が退位 | |||||
後伏見天皇 | 1298~1301 | 後伏見天皇が即位 | ||||
北条師時 | 1301 | 北条師時が執権任命される | ||||
後伏見天皇が退位 | ||||||
後二条天皇 | 1301~1308 | 後二条天皇が即位 | ||||
守邦親王 | 1308 | 守邦親王が征夷大将軍に任命される | ||||
後二条天皇が退位する | ||||||
花園天皇 | 1308~1318 | 花園天皇が即位する | ||||
北条宗宣 | 1311 | 北条宗宣が執権に任命される | ||||
北条煕時 | 1312 | 北条煕時が執権に任命される | ||||
北条元時 | 1315 | 北条基時が執権に任命される | ||||
北条高時 | 1316 | 北条高時が執権に任命される | ||||
1317 | 両統迭立(文保の和談) | |||||
1318 | 花園天皇が退位 | |||||
後醍醐天皇 | 1318~1339 | 後醍醐天皇が即位 | ||||
院政の終焉 | 1321 | 後醍醐天皇が親政を開始 | ||||
1324 | 正中の変 | |||||
北条貞顕 | 1326 | 北条貞顕が執権に任命される | ||||
北条守時 | 北条守時が執権に任命される | |||||
1331 | 元弘の変 | |||||
1332 | 楠木正成、護良親王が挙兵 | |||||
後醍醐天皇が北条師の追討令を出す | ||||||
1333 | 六波羅探題陥落 | |||||
※北条貞将 | 北条貞将が最後の鎌倉執権となる | |||||
鎌倉幕府滅亡 |
平安時代から鎌倉時代にかけての時代背景
平安時代末期に5年間に及んだ治承・寿永の乱(源平合戦)が勃発しました。
権力を掌握した平家による支配をよく思わない朝廷勢力は源氏の頭領である源頼朝と接近しました。
朝廷からの要請を受け源頼朝は挙兵。弟である源義経の活躍もあって平家打倒に成功します。
平家を滅ぼした源頼朝は全国に守護・地頭を設置することを朝廷に認めさせることに成功。これにより源氏は全国の警察権つまり源氏の軍事力は全国的なものとなったのです。
兄弟の決裂
治承・寿永の乱で活躍した源義経でしたが兄の頼朝と敵対することになります。
二人が決裂した説はいろいろあるのですが今回は最も有力だと思う説を紹介します。
兄弟の決裂の話をする前に知っておかなければならないことを二つ記述します。
- 源頼朝が目指した支配構造
- 源頼朝の権力基盤
頼朝が目指した支配構造
頼朝は朝廷の支配を寄せ付けないほどの強い組織づくりを目指していました。簡単にいうと幕府という組織を朝廷の上位互換にするというものです。
その組織づくりのため朝廷と幕府とのハブの役割を武士の頭領である頼朝が行う必要がありました。
なぜ、頼朝が朝廷と幕府とのハブになる必要があるのか説明します。
ハブである頼朝を飛ばして朝廷と部下が直接繋がりを持つということは頼朝の知らないところで勢力や制度といった自分の力が及ばない勢力や制度が組織の一部になるということです。
組織の中に頼朝の力の及ばない部分があるのは大変リスクがあることです。
安定していないこの時代には頼朝は完全なるトップダウンの支配構造が必要だと考えたのです。
そして、もう一つは朝廷に部下を奪われる危険性があるということです。
朝廷は頼朝の武力をかなり脅威と感じていました。しかし、武力では頼朝には太刀打ちできないのです。そこで朝廷が取れる選択は頼朝の力を削ぐことです。
頼朝は自分の部下を朝廷に取られないためにもハブとしての役割を担う必要があったのです。
頼朝の権力基盤
頼朝は平清盛により伊豆へ流されました。伊豆では伊藤家に身柄を預けられましたがその後、紆余曲折あって北条家に迎えられることになりました。
治承・寿永の乱では鎌倉武士団を率いるようになります。
つまり、この頃の頼朝の武力、権力の基盤は鎌倉武士団であるということが重要な要素です。
畿内の武士でも京都の武士でもなく鎌倉武士団こそが頼朝の権力を支えていたのです。
義経討伐
義経は確かに治承・寿永の乱で大活躍しました。しかし、問題なのは頼朝の目指していた支配構造から逸脱した行為があったこと、鎌倉武士団から嫌われていたことです。
義経は戦さの天才でした。戦いには連戦連勝でしたが義経が従えていたのは鎌倉武士団ではなく畿内や京都の武士だったのです。さらに、頼朝の許可を得ず独断専行や朝廷から検非違使という役職を得てしまったのです。
頼朝と義経は決裂します。まずはじめに義経が後白河法皇に頼朝討伐の命を出させます。義経は上皇の命令であれば兵も集まり自分が指揮する軍なら頼朝を倒せると考えたのです。
結果は、後白河法皇の命でも兵は集まりませんでした。これまで義経が兵を集められていたのは武士の頭領である頼朝の後ろ盾あってのものだったのです。さらに後白河法皇はこれまでに平清盛や木曽義仲よって傀儡的な動きをしていたことも要因の一つだったようです。頼朝が勝てば後白河法皇はすぐ命令を撤回すると考えられてしまったようです。
義経の死と奥州藤原氏の滅亡
挙兵に失敗した義経に対し頼朝は数年ぶりに自ら出陣します。義経に勝ち目はなく奥州藤原氏の元へ逃げます。
義経と奥州藤原氏の関係は頼朝と北条家の関係に似ています。清盛によって頼朝が伊豆へ流されたように義経は奥州藤原氏の元で幼少を過ごしたのです。
頼朝は奥州藤原氏に義経を引き渡すように何度も要求します。はじめは拒絶していた奥州藤原氏でしたが頼朝の圧力に耐えきれず義経を殺害し首を鎌倉へ送ります。
義経の首を差し出した奥州藤原氏でしたが頼朝は奥州藤原氏の討伐を決めます。
そうして、1189年に奥州藤原氏は頼朝率いる鎌倉幕府軍に滅ぼされました。
源頼朝の鎌倉幕府
1192年に征夷大将軍に任命された頼朝が正式に鎌倉幕府を開きました。しかし、幕府という大き組織を運営するためには前もっての準備が必要不可欠です。
頼朝は幕府を開くための準備運動を10年以上前から始めていました。清盛も生きており平家討伐に成功するかもわからない段階からです。
将軍
鎌倉
- 侍所(1180年)
- 政所(1191年)
- 問注所(1184年)
諸国
- 京都守護(1185年)
- 鎮西奉行(1185年)
- 奥州総奉行(1189年)
- 守護(1185年)
- 地頭(1185年)
将軍である頼朝をトップに置き鎌倉には
侍所:御家人の取り締まり、軍事
政所:一般政務、公文所
問注所:訴訟、裁判
諸国は
京都守護:京都の治安維持
鎮西奉行:九州の御家人の統率
奥州総奉行:奥州の御家人の統率
守護:御家人の統率、警察
地頭:国衙領(公領)、荘園(私有地)の管理
この将軍を中心とした権力構造こそ長年朝廷が求めていた律令制に近いものです。皮肉なことに朝廷より幕府が先に律令制を成し遂げた形になってしまいました。
頼朝亡き後の鎌倉幕府
日本で初めて武士よる支配を成し遂げた源頼朝でしたが1202年に落馬による怪我が原因で亡くなってしまいます。
頼朝の死後に将軍ついたのは息子の頼家でした。
頼家は当時18歳と歳若く東国の武士団を率いるには経験もカリスマ性もありませんでした。
十三人の合議制
そんな頼家は将軍就任わずか3ヶ月で権力を奪われてしまいます。
奪ったのは頼朝の重臣として活躍した東国の有力御家人です。
その有力御家人が大河ドラマにもなった『鎌倉殿の13人』です。
この13人による集団指導体制を十三人の合議制と呼びます。
十三人の合議制メンバー
- 北条義時
- 北条時政
- 梶原景時
- 和田義盛
- 比企能員
- 三浦義澄
- 大江広元
- 三善康信
- 中原親能
- 八田知家
- 足立盛長
- 足立遠元
- 二階堂行政
この13人が将軍に代わり政策や幕府の運営方針を考え最終判断を将軍である頼家が下すというものでした。
13人の合議制はわずか1年足らずで崩壊します。やはり癖のある御家人をまとめられていたのは頼朝の圧倒的なカリスマがあってこそのものだったようです。
源氏将軍も3代で途絶えてしまい以後は北条家が執権として力を伸ばし始めていくのです。
北条氏による執権政治の開始
二代将軍の頼家はわずか3ヶ月で権力を奪われ13人の合議制で幕府は運営されていました。
頼家は再び権力を取り戻そうと合議制のメンバーである梶原景時、比企能員を味方につけることに成功します。
しかし、1203年頼家は体調を崩し危篤状態に陥りました。
頼家が危篤状態に陥ったことで北条時政が将軍権力、他のメンバーの力を弱めよう動き始めました。
時政は「頼家亡き後は頼家の長男の一幡と千幡で全国を東西にわけ統治するべきと」と主張し始めたのです。
この主張に比企能員が反発します。
一幡と千幡
頼家は頼朝の嫡男であり、頼家の子である一幡は頼朝の嫡孫に当たります。
一方、千幡は頼家の弟です。つまり、頼朝と北条政子の子供ということになります。
順当にいけば嫡孫である一幡が次期将軍となるのですが問題となるのは一幡の母が比企氏の娘であることでした。一幡が将軍になるということは比企氏の権力が大幅に上がるということでもあるのです。
それを恐れた北条氏は千幡を次期将軍にしようとします。しかし、いきなり千幡を将軍にするというのは他のメンバーからの反発は必須です。そこで一幡と千幡で東西を分け統治すべきと主張したのです。
ちゃっかり、北条氏に有利になるように統治区域は千幡の方が多くなるように決定しました。
比企氏滅亡
この決定を知った比企氏は激怒。時政暗殺を計画しますがこの計画は事前に漏れてしまいます。
時政は比企能員を自宅に招いて殺害、比企一族、一幡まで粛清するのです。この事件は比企能員の変と呼ばれ比企一族と一幡は北条氏により滅亡しました。
頼家の幽閉と千幡の将軍就任
死の淵から回復した頼家は比企氏の滅亡と一幡の死に激怒、和田義盛らに時政を殺害するように命じますが北条氏により幽閉されます。
幽閉された頼家の代わりに将軍に就任したのが千幡です。千幡は将軍になると実朝と名乗るようになりました。ちなみに後鳥羽天皇が実朝と名づけました。
時政は比企氏の排除に成功し実朝を将軍にすることで外戚として権力を握ることに成功しました。
時政の追放と北条氏の執権政治
ライバルの排除に成功した時政でしたが畠山忠重の乱により息子の義時により伊豆へ追放されてしまいます。
北条家のトップ、執権の地位に立った義時が他のライバルたちとの権力争いを制し北条氏の執権政治を確固たるものにしたのです。
こうして、頼朝亡き鎌倉幕府は北条氏が仕切るようになりました。
後鳥羽上皇と鎌倉幕府の権力争い
頼家、実朝が亡くなって源氏将軍は断絶しました。将軍の後継に皇族の血を引くものを北条氏は朝廷に要求しましたが後鳥羽上皇はこれに反発します。
朝廷と幕府の関係は実朝の死後急激に悪化したのです。実は三代将軍であった実朝は後鳥羽上皇と良好な関係を築くことができていたのです。その実朝が亡くなったことにより後鳥羽上皇は幕府への警戒を強めていきます。
北条氏からの要求を拒否したのも皇族の血を引くものを鎌倉へ送るということは幕府の権力を高めるリスクが高かったからです。
しかし、北条氏の圧力は強く軍事的にも威嚇されとうとう断れなくなった後鳥羽上皇は皇族は送れないが摂関家からなら許可すると九条家(旧藤原氏)から三寅を鎌倉へ送ることにしました。
ここで、事件が起こります。京都にいた源頼重が三寅が将軍になることに反発し謀反を起こしたのです。この源頼重が謀反は後鳥羽上皇により鎮圧されます。
源頼重の謀反を鎮圧したのは後鳥羽上皇率いる朝廷軍であったことが問題でした。後鳥羽上皇は自分の軍が源氏を鎮圧することができるほど士気も練度も高いことを目の当たりにしたのです。
この戦いで後鳥羽上皇はもしかしたら幕府軍も倒せるかもしれないと思うようになります。
承久の乱
そして、1221年に後鳥羽上皇は北条義時に対し追討の命令を出すことにします。これが承久の乱です。
結果は朝廷軍の敗北。
北条政子の演説により結束を強めた鎌倉武士団は圧倒的な強さで朝廷軍を破りました。
敗北した後鳥羽上皇は流罪に処されます。順徳上皇、土御門上皇も同じく流罪。そして、天皇に就任したばかりの仲恭天皇は退位させられ新たに後堀河天皇が即位させられることになりました。
これは、幕府が皇位継承に関与した前例となります。幕府が朝廷権力を凌駕した瞬間とも言えます。
武家政権による統治体制
勝利した幕府は朝廷を監視するため六波羅探題の設置し北条泰時、北条時房が任命されます。
幕府は朝廷の土地を没収。これまで東は幕府の影響力が強く西は朝廷の影響下でしたが幕府が朝廷を破ったためこれまで公(朝廷)武(幕府)による二元体制を幕府が統一し幕府による支配が全国に浸透、そして日本に武家政権が誕生することになりました。
モンゴルの脅威
承久の乱の後、鎌倉幕府は三代執権に義時の息子で泰時が就きます。鎌倉幕府はしばらく安定期に入ります。
将軍には摂関家から送られた三寅が4代将軍として頼経と名を変え就任します。その後、5代将軍も摂関家から排出された頼嗣が就任したことからこの二人は摂家将軍と呼ばれるようになります。
6代将軍にはついに宗尊親王が就くことになり鎌倉幕府の中に皇族が入るようになりました。
北条氏が三浦氏を滅ぼしたりしながら順調に権力を掌握することに成功していましたが8代執権北条時宗の時(1271年)にモンゴル帝国の皇帝フビライハンが日本に従属するように使者を派遣してきました。
文永の役
使者が派遣されてから3年後の1274年モンゴル軍が3万以上の軍勢で九州へと襲来。博多に上陸したモンゴル軍を九州の御家人を中心とした幕府軍が奮戦するが大苦戦。
モンゴル軍の戦い方は武士が卑怯としていた毒矢を使ったり、てつはうという炸裂弾を用いていました。国内での戦とは勝手が違いすぎて武士は戸惑います。
武士の戦い方は基本的に1対1で名乗りをあげて戦うものでした。それに対しモンゴル軍は集団戦法で戦うことが基本。集団戦法に劣る武士は劣勢に陥ります。
しかし、モンゴル軍は一夜にして撤退します。最新の説では文永の役でのモンゴル軍の侵攻は偵察が目的だったとされています。
そして、武士とは別に戦っていた人物もいました。亀山上皇です。亀山上皇は実際に戦ったわけではありませんでしたが戦の間祈りを捧げていたのです。この時代でも祈りという呪術的な思想は存在していようです。
平安時代の平将門の乱でも天皇が祈りを捧げるということが大きな意味を持っていました。日本には大きな戦いがある前には時の権力者が神社に参るのは近代でもみられています。
モンゴル軍に対する迎撃体制
文永の役でモンゴル軍の脅威にさらされた鎌倉武士団は再度侵攻に対し西国の守護を北条一族で固めて迎撃体制を整えます。
さらに御家人たちに石築地と呼ばれる防塁を作らせ沿岸の守りを強化しモンゴル軍に備えます。
公安の役
文永の役の後もフビライハンは日本に従属するように使者を使わしました。しかし、北条時宗は拒否するだけでなく派遣された使者を殺害してしまいます。
これに激怒したフビライハンは1281年に再び日本に侵攻を開始しました。
モンゴル帝国は14万の大軍を派遣。東路軍と江南軍の二手に分かれて侵攻を開始。
しかし、前回の侵攻により対策を考えていた日本により東路軍は博多に上陸できませんでした。鎌倉武士団もモンゴル軍にて対し徹底抗戦の構えを崩しません。
そこで東路軍は江南軍と合流し総攻撃を計画します。しかし、総攻撃する前に暴風雨に見舞われ甚大な被害を受け撤退せざる得なくなりました。日本に神風が吹いたのです。
もちろんこの時も亀山上皇は祈りをささげていました。
こうして、武士の力と上皇の祈りにより日本はモンゴルという脅威を払うことができたのです。
モンゴル帝国の爪跡
鎌倉幕府は武士の総力を上げモンゴル軍から日本を守ることに成功しました。本来なら武士には多大な恩賞が与えられるはずでしたが幕府にはそれが準備できませんでした。
この時代の恩賞は土地であることがメインであるため今回のように国土を守るために戦った場合には与えるための新たな土地がなかったのです。
こうして幕府と武士の関係は悪化し鎌倉幕府の力が弱まる原因になりました。
武士の生活も貧窮していき借りたお金を返せない武士達が出てきました。そこで、1297年9代執権の北条貞時が永仁の徳政令をだします。
永仁の徳政令は武士の借金を帳消しにするもので一時的に武士の生活は豊かになりました。武士は助かりましたがお金を貸している側からしたら大損です。
今度は、誰も武士にお金を貸さなくなり武士の生活また貧窮していきます。それは幕府の信用、力が衰えるということでもあります。
こうして、鎌倉幕府は弱体化していきます。
両統迭立(文保の和談)
鎌倉時代の末期から室町時代にかけて天皇の皇統が2つに分かれる時期がありました。88代天皇であり上皇として30年間治天の君として君臨していた後嵯峨上皇が次の治天の君(朝廷の実質的権力者)を定めず崩御したことが原因です。
後深草天皇と亀山天皇の対立
後嵯峨上皇の皇子の中から2人の天皇が誕生します。
兄の後深草天皇と弟の亀山天皇です。後嵯峨上皇は天皇時代に後深草天皇に皇位を譲り院政を開始します。
問題は皇位を譲った後深草天皇を早々に退位させ弟の亀山天皇を即位させたことです。後嵯峨上皇は兄の後深草天皇より弟の亀山天皇を溺愛していたとされています。
病弱だったゆへに冷遇された後深草天皇
後深草天皇はわずか4歳で皇位を継承し天皇として即位しました。しかし、元来病弱な体質した。反対に亀山天皇は健康的で活発な子供でした。
すると後嵯峨天皇の寵愛は亀山天皇に傾くようになります。そして、後深草天皇が17歳の頃マラリア性の熱病に罹ると後嵯峨上皇は弟の亀山天皇に皇位を譲るように命令するのでした。
立太子問題
後深草天皇を退位させた後嵯峨上皇はさらに立太子(次期天皇)についても残酷な命令を出します。
後深草天皇には煕仁親王という皇子がいました。それにも関わらず後嵯峨上皇は亀山天皇の皇子を立太子にするように命じたのです。
後深草天皇は皇位継承の外に置かれたことになります。怒りと、悲しみは相当なものだったようです。それだけでなく、坂上田村麻呂伝来という朝廷守護の宝剣まで亀山天皇が手中に収めました。
皇位も宝剣も弟に奪われたという事実は後深草天皇と亀山天皇の対立の原因になっとと言えます。
後嵯峨上皇は30年の間治天の君として朝廷に君臨します。その間の天皇は亀山天皇です。兄の後深草天皇(この時には退位していたので上皇)はずっと冷遇されていましたから不満も大いに溜まっていたことだと思われます。
そして後嵯峨上皇が1272年に崩御すると後深草上皇と亀山天皇の間で皇位をめぐる対立がおこります。
後深草天皇の持明院統と亀山天皇の大覚寺統
後嵯峨上皇は後継の治天の君や皇位決定を自ら下すことなく幕府に判断を委ね崩御しました。
幕府は上皇と亀山天皇の母に上皇の遺志を確認します。その2年後に天皇は亀山天皇の皇子である後宇多天皇が即位することになり、亀山天皇は上皇として院政を開始します。
権力の中枢から外された後深草上皇の怒りは爆発、失望のあまり抗議の意味で上皇の尊号を辞退し出家を決意します。
この異例の事態に鎌倉幕府が皇位継承問題の仲裁に動きます。
後宇多天皇が退位した後は後深草上皇の皇子である後の伏見天皇を皇太子に据えるよう朝廷に命じました。
以後、10年ごとに後深草天皇系と亀山天皇系で天皇を輩出する両統迭立を提案します。朝廷もこの案を受け入れます。
後深草天皇系と亀山天皇系の派閥を大覚寺統(後深草天皇系)と持明院統(亀山天皇系)と呼び室町時代の南北朝を招く転換点になりました。
鎌倉幕府滅亡
後深草天皇と亀山天皇で皇統が2分された両統迭立の時代がはじまりました。
そして、大覚寺統の96代後醍醐天皇の時に鎌倉幕府を滅亡に導く事態がおこります。
後醍醐天皇は本来天皇になれる立場にはなかったのですが条件付きで96代天皇に即位します。
その条件が後醍醐天皇にとって不本意なものであったことが院政の終焉と鎌倉幕府の滅亡をまねくことになりました。
持明院統 | 大覚寺統 |
---|---|
89代後深草天皇 | 90代亀山天皇 |
92代伏見天皇 | 91代後宇多天皇 |
93代後伏見天皇 | 94代後二条天皇 |
95代花園天皇 | 96代後醍醐天皇 |
後醍醐天皇は91代後宇多天皇の第2皇子です。本来96代天皇は後二条天皇の皇子から選ばれるはずでした。
しかし、後二条天皇の皇子がまだ幼く中継ぎとして後醍醐天皇が選ばれることになります。しかし、皇位を継ぐ条件として大覚寺統の後継は後二条天皇の子孫であるとされました。
後醍醐天皇にとっては自分の子孫が天皇になれないことは不本意なものです。そこで院政を敷いていた父の後宇多上皇から政務を返すように要求し権力を奪い取ることに成功します。
上皇から権力を奪い取ることに成功した後醍醐天皇は実に249年ぶり天皇による治天の君として親政をおこなうことになりました。
院政を終わらせた後醍醐天皇は密かに幕府討伐も計画します。後醍醐天皇のビジョンとして日本の正当な支配者は天皇であったのです。
しかし、実際に国を支配しているのは貴族でも皇族でもなく武士でした。そして、いずれ幕府から譲位を迫られる定めにあり、加えて自分の皇子は皇位を継承できないのです。
朝廷の権力を手にした後醍醐天皇は鎌倉幕府さえ倒せば自分の皇位を揺るがすものは居らず次期天皇も自分の皇子から輩出できると考えたのです。
そこで、後醍醐天皇は朝廷の最高権力者として有力寺社や一部の武士を味方につけ鎌倉幕府の討伐計画を練るのでした。
正中の変
1324年に後醍醐天皇は日野資朝、日野俊基など公家や武士の土岐頼員、多治見国長を味方に引きれ朝廷を監視している六波羅探題襲撃計画をたてる会議を幾度となく開きました。
しかし、六波羅探題の襲撃計画は事前に漏れてしまい失敗に終わります。計画に参加していた日野資朝は流罪となりその後暗殺されましたが日野俊基は無罪として京都に戻され後醍醐天皇も無関係であると釈明し処分を免れるなど寛大な処置が取られました。
元弘の変
正中の変に失敗した後醍醐天皇でしたが幕府討伐を諦めることはできませんでした。幕府が存続している限り自分の権力は一時的なものに過ぎないからです。
正中の変から7年後の1331年に後醍醐天皇が再び楠木正成と共に挙兵し元弘の変をおこしました。
しかし、元弘の変も失敗しました。後醍醐天皇は捕まり隠岐へ流罪となりまいた。皇位も廃され持明院統の皇太子が光厳天皇として即位することになりました。
共に挙兵した楠木正成は計画失敗後は姿を消し幕府討伐のために体制を整えます。後醍醐天皇も天皇復権を諦めていませんでした。
幕府討伐の動きは止まらなかった
後醍醐天皇による2度の討幕失敗後も討幕を目指す勢力は衰えませんでした。
元寇によりこれまで幕府を支えていた武士達との御恩と奉公の関係が破綻。御家人達は不満を積もらせ悪党と呼ばれる反幕府体制の新興武士を台頭させた。さらに、永仁の徳政令により商人達からも見限られ幕府の権力は弱体化していたのです。
元弘の変の翌1332年には姿を消していた楠木正成が再び挙兵。さらに後醍醐天皇の皇子である護良親王も挙兵します。
これらが引き金となり畿内を中心に次々と反乱がおこります。
1333年には隠岐に配流されていた後醍醐天皇が伯耆の名門、名和氏の力を借りて脱出し方々に幕府討伐の宣旨をだしました。
足利尊氏の裏切り
幕府は反抗勢力の鎮圧のため有力御家人の足利尊氏を派遣して対抗しようとします。
足利尊氏は京都へ向かう途中に幕府に反旗を翻したのです。これにより鎌倉幕府と後醍醐天皇の勢力図が大きく塗り変わることになりました。
鎌倉の陥落
足利尊氏の裏切りにより劣勢に立たされた鎌倉幕府。必死に抵抗していたのですがもはや勢いを止めることはできませんでした。
京都では1333年5月に足利尊氏により六波羅探題が攻略されます。
いっぽう鎌倉にも討幕軍が侵攻を開始しました。新田義貞の軍が分倍河原で幕府軍を退けると快進撃を続けとうとう鎌倉を陥落させることに成功します。
こうして150年続いた鎌倉幕府は後醍醐天皇の討幕計画をきっかけに滅亡することになりました。
コメント