**光厳天皇(こうごんてんのう)の践祚(せんそ)**とは、
元弘の変の最中、鎌倉幕府の意向によって新たに天皇として即位した出来事です。
この即位は、
のちに続く 南北朝時代のはじまりにつながり、
日本史の中でもとくに複雑で重要な転換点となりました。
光厳天皇の践祚が一目でわかる
- 践祚した年:1331年
- 時代:鎌倉時代の終わりごろ
- 立場:北朝初代の天皇
- 背景:元弘の変で後醍醐天皇が流罪
- 特徴:三種の神器がないままの即位
光厳天皇とはどんな人物?
光厳天皇は、
**後伏見天皇の皇子・量仁親王(かずひとしんのう)**として生まれました。
彼は、天皇家の中でも
**持明院統(じみょういんとう)**と呼ばれる系統に属し、
後醍醐天皇(大覚寺統)と対立する立場にありました。
この「二つの皇統の対立」が、
のちの南北朝時代の大きな原因となっていきます。
なぜ光厳天皇は践祚することになったのか?
元弘の変による“天皇不在”の危機
1331年、
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒そうとして 元弘の変を起こしますが、
失敗して 隠岐(現在の島根県)へ流罪となりました。
この時、京都には
正式な天皇がいない状態が生まれます。
政治の混乱をおさえたい鎌倉幕府は、
新たな天皇を立てて、
朝廷の安定と自らの正統性を保つ必要がありました。
そこで選ばれたのが、
後伏見天皇の皇子である 量仁親王――
のちの 光厳天皇 です。
光厳天皇の践祚(即位)の特徴
① 幕府によって擁立された天皇
光厳天皇の即位は、
朝廷の意思というより、鎌倉幕府の政治判断によるものでした。
幕府は、
「天皇の名のもとに政治を進める体制」を整えるため、
光厳天皇を即位させたのです。
② 三種の神器なしでの即位
本来、天皇の即位には
**三種の神器(鏡・剣・玉)**の継承が欠かせません。
しかし当時、神器は
流罪となった 後醍醐天皇のもとにありました。
そのため光厳天皇は、
神器を持たないまま践祚するという異例の形をとることになります。
このことは、
のちに「どちらの天皇が正統なのか」という
南北朝の争いの火種となりました。
光厳天皇の践祚がもたらした歴史の流れ
南朝と北朝が生まれる
光厳天皇が即位したことで、
日本の朝廷はやがて
二つに分かれる道を歩み始めます。
- 南朝:後醍醐天皇を正統とする立場
- 北朝:光厳天皇を正統とする立場
この対立が本格化したのが、
**南北朝時代(1336〜1392年)**です。
鎌倉幕府滅亡と光厳天皇の退位
1333年、
倒幕勢力の活躍によって 鎌倉幕府は滅亡します。
幕府の後ろ盾を失った光厳天皇は、
この年に 退位しました。
しかし彼の存在は消えず、
弟や子が北朝の天皇として続き、
朝廷の分裂は長く続いていきます。
光厳天皇の践祚を年表で整理
- 1313年:量仁親王として誕生
- 1331年:元弘の変 → 後醍醐天皇が流罪
→ 光厳天皇、践祚(即位) - 1333年:鎌倉幕府滅亡 → 退位
- 以後:南北朝時代へ
よくある疑問
光厳天皇は正式な天皇なの?
光厳天皇は、
北朝初代の天皇として実際に即位した人物です。
ただし、
後の歴史書では 南朝を正統とする考え方が広まり、
一般的な「歴代天皇」には数えられないことが多くなりました。
なぜそんなにややこしいの?
それは、
天皇の正統性と政治権力が食い違った時代だったからです。
- 政治の力:鎌倉幕府
- 正統性の主張:後醍醐天皇
このズレが、
光厳天皇の践祚を「特別な即位」にしたのです。
まとめ|光厳天皇の践祚は「日本史が二つに割れた瞬間」
光厳天皇の践祚は、
単なる天皇交代ではありません。
- 元弘の変の混乱の中で誕生した即位
- 三種の神器を欠いた異例の践祚
- 南朝と北朝という二つの朝廷の出発点
この出来事を知ることは、
なぜ日本史が南北に分かれ、長い内乱の時代へ進んだのかを
理解する第一歩になります。
光厳天皇の践祚は、
まさに 日本史の分かれ道だったのです。

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