6代将軍 足利義教が暗殺されたあと、室町幕府は「トップ不在」の危機に落ち込みます。
その混乱の中で立てられたのが、幼い7代将軍・足利義勝(あしかが よしかつ)でした。
ただ、義勝が“自分の政治”を行う前に、幕府は現実的な選択を迫られます。
――幼将軍を立て、政権は管領と重臣が支える。
この体制は幕府をつなぎとめた一方、権力の緊張も残しました。
プロフィール|足利義勝の基本情報
刺さる一言:将軍になったのは“強さ”ではなく、“必要”だった。
- 名前:足利義勝(あしかが よしかつ)
- 生年:1434年(永享6年)
- 父:足利義教
- 母:日野重子(側室)
- 立場:室町幕府 第7代征夷大将軍
- 就任:1442年(嘉吉2年)に元服・将軍宣下(9歳前後)
- 死去:1443年(嘉吉3年)に早世(病死とされ、赤痢説など)
- 後継:同母弟の 足利義政 が選ばれる
何をしたか|義勝の「政治」は、周囲が回した
刺さる一言:幼将軍の“仕事”は、決めることより“座り続けること”。
義勝が将軍になった直後、幕府が最優先したのは政策より政権の継続です。
そのため、実務は管領と重臣が担い、義勝は「将軍という旗印」として位置づけられます。
2-1. 幕政の中心は管領・重臣へ
義勝が幼少だったため、幕府は管領が中心となって幕政を補佐する方針を明確化します。
具体的に、管領が 細川持之 から 畠山持国 へ引き継がれた流れが語られます。
2-2. 「将軍としての振る舞い」を整える
史料・解説では、義勝が重臣邸への御成などを行い、将軍としての形を早く整えようとした様子も紹介されます。
ただ、方向性を決める段階まで権限が及んだかは限定的です。
義勝の時代に何が起こったか|“後始末”の時間
刺さる一言:この時代は「未来を作る」より「崩れないように支える」。
義勝の将軍期(1442〜1443)は短いので、ポイントは「幕府が何を処理していたか」です。
- 父・足利義教暗殺後の政局整理(有力守護への警戒と調整)
- 幼将軍体制(管領・重臣合議)で、権力が“分散”した状態の固定化
- 義勝の早世によって、後継選びが再び課題に(→ 足利義政 へ)
国内情勢|「強い将軍」を失ったあとの空気
刺さる一言:恐怖でまとまっていた政権は、恐怖が消えると割れやすい。
義教の強権的統治の反動で、将軍が幼少になると、幕府は一気に「合議」と「調整」へ傾きます。
これは短期的には安定策ですが、裏返すと「誰が最終決定者か」が曖昧になり、守護大名側が様子見しやすい状況でもあります。
政治の中心地である 京都 では、将軍家の権威を保ちつつ、朝廷・守護との距離感を崩さないことが最優先になります。
敵対勢力・味方|義勝の政権地図
刺さる一言:敵味方というより、“誰が支える側か”がすべて。
味方(政権を支える側)
- 管領・重臣(中心人物として 畠山持国 ら)
- 幼将軍体制を受け入れ、「幕府の形」を守りたい勢力
敵対(不安要因)になりやすい側
- 強権期の反動で、幕府の統制が弱まると“自立”へ傾く守護大名層(=潜在的圧力)
- 父を討った 赤松満祐 周辺の処理をめぐる緊張(政局の火種)
影響力|義勝が残した「空白」
刺さる一言:短命が残すのは“思い出”ではなく“制度の歪み”。
義勝の影響は、政策の成果ではなく「政権の形」です。
- 幼将軍を支える合議体制が前面に出る
- そのまま義勝が早世し、再び幼い 足利義政 が後継となる
- 将軍家の連続性が揺れ、幕府権威が“脆いもの”として見られやすくなる
まとめ|義勝は「幼将軍体制」の象徴だった
足利義勝は、幼くして将軍となり、政権は管領・重臣に支えられました。
その体制は幕府をつないだ一方、義勝の早世で“空白”が深まり、次の幼将軍へと続きます。
派手な実績は少なくても、義勝は室町幕府が「強権から合議へ」振れた瞬間を体現した将軍です。
次におすすめ
- 直前の激震を押さえる → 「足利義教|6代将軍:強権的な統治で幕府の主導権を取り戻そうとした」
- 義勝の後、文化の時代へ → 「足利義政とは?(8代将軍・東山文化へ)」
- 将軍暗殺の事件を詳しく → 「(出来事)嘉吉の乱とは?将軍が討たれた日」

コメント