後鳥羽上皇って、どんな人?
**後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)**は、
鎌倉時代のはじめに活躍した天皇です。
歴史の教科書では、
「承久の乱を起こした人」
として知られていますが、実はそれだけではありません。
後鳥羽上皇は――
政治にも文化にも強い関心を持った、多才な人物でした。
天皇から「上皇」へ――その意味
後鳥羽天皇は若くして即位しましたが、
のちに退位し、上皇となってから本格的に政治へ関わります。
この時代、
天皇を退いたあとも実権を持つ
**「院政(いんせい)」**という政治の形がありました。
後鳥羽上皇も、
この院政の立場から、国の行く末を考えていたのです。
なぜ鎌倉幕府と対立したの?
後鳥羽上皇が生きた時代、
日本の政治の中心は、
しだいに**鎌倉幕府(武士)**へ移っていました。
一方、京都の朝廷は、
発言力を失いつつあります。
後鳥羽上皇は、
この状況を見て強い危機感を抱きました。
「このままでは、天皇の存在が形だけになってしまう」
そう考えた上皇は、
武士の政権である鎌倉幕府に対して、
思い切った行動に出ます。
承久の乱――最大の決断
1221年、
後鳥羽上皇は、幕府を倒すために
承久の乱を起こしました。
全国の武士に向けて、
「鎌倉幕府を討て」
と呼びかけたのです。
しかし結果は――
幕府側の圧勝。
朝廷側の軍勢はまとまりを欠き、
戦いは短期間で終わりました。
敗北のあと、待っていた運命
承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は、
隠岐(おき)の島へ流されます。
これは、
天皇や上皇という立場の人物が、
武士によって処罰された
はじめての出来事でした。
この事件は、
「政治の主役が完全に武士へ移った」
ことを、全国に強く印象づけました。
文化人としての後鳥羽上皇
後鳥羽上皇のすごさは、
政治だけではありません。
実は彼は、
和歌と刀剣に深い情熱を持った文化人でもありました。
和歌の世界
後鳥羽上皇は、
有名な歌集
**『新古今和歌集』**の編さんを主導した人物です。
多くの歌人を集め、
日本の和歌文化を大きく発展させました。
刀剣へのこだわり
さらに後鳥羽上皇は、
名刀を愛し、自らも鍛冶に関わったと伝えられています。
「刀をこよなく愛した天皇」
として、
刀剣ファンの間でも知られる存在です。
六波羅探題との深い関係
承久の乱のあと、
鎌倉幕府は強く思いました。
「もう二度と、京都で反乱を起こさせない」
そこで設置されたのが、
六波羅探題です。
六波羅探題は、
京都で朝廷の動きを監視する役所。
つまり――
後鳥羽上皇の行動がきっかけとなって、
六波羅探題という組織が生まれたのです。
後鳥羽上皇が日本史に残したもの
後鳥羽上皇は、
承久の乱で敗れました。
しかし彼の存在は、
日本史の中でとても大きな意味を持ちます。
- 天皇の立場から、武士政権に正面から向き合った
- 政治と文化の両面で、強い個性を残した
- 日本の権力構造が変わる瞬間を象徴する人物
後鳥羽上皇は、
時代の転換点に立ち会った象徴的な天皇
だったと言えるでしょう。
よくある質問(FAQ)
Q1. 後鳥羽上皇はなぜ承久の乱を起こしたの?
A. 鎌倉幕府の力が強くなり、朝廷の立場が弱くなったことに危機感を持ったからです。
Q2. 後鳥羽上皇はどこへ流されたの?
A. 隠岐の島です。
Q3. 後鳥羽上皇は文化面で何をしたの?
A. 『新古今和歌集』の編さんを主導し、日本の和歌文化を発展させました。
Q4. 六波羅探題との関係は?
A. 承久の乱をきっかけに、京都を監視する六波羅探題が設置されました。
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後鳥羽上皇を知ると、
鎌倉時代の政治の流れがより立体的に見えてきます。
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