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六波羅探題の残党の末路

後醍醐天皇軍に敗北した六波羅軍は天皇、上皇を連れ鎌倉に撤退することになります。

しかし、幕府からの追ってにより山科に着く前に北条時益は追っての弓矢により死亡。
暗闇の中ということもあり敵を討つこともできませんでした。

北条時益の家臣である粕屋七郎は主君の首を切り敵に奪われないように道の傍に隠しました。
そして、主君一人を残していくことはできないと自ら腹を切り自害します。

残った北条仲時は追ってや落武者狩りをしのぎながらなんとか滋賀県の篠原に辿り着きました。
しかし、篠原では大規模の落武者狩りが待ち受けていました。

北条仲時はいよいよ逃げることはできない最後の時が来たと判断するとこれまで付き従ってくれた忠臣に報いるため自害するを決意します。

北条仲時は「これまで付いてきてくれたお前たちに報いる方法ないか考えた。これより私は腹を切る。この首を後醍醐天皇に差し出せば北条仲時を射ったものとして恩賞が出されるであろう」と言葉を残し腹を切りました。

北条仲時の最期を見た家臣の粕屋宗秋が「私こそ先に自害して、あの世でも仲時様の先払いをするべきだった。」と言い残し腹を切ります。
粕屋宗秋の自刃を皮切り残った家臣も同時に腹を切るのでした。

こうして自刃した家臣の数はわかっているだけでも432人に上り北条仲時と家臣の血が川のように流れたと言われています。

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