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建武の新政の政治体制とは?組織図・中央と地方の統治・失敗した理由をやさしく解説建武の新政

鎌倉幕府が滅びたあと、日本はどんな政治を目指したのでしょうか。
その答えが、**建武の新政(けんむのしんせい)**です。

建武の新政は、1334年に後醍醐天皇が始めた、
「天皇中心の政治を取り戻そう」という大きな改革でした。

しかしこの政治は、わずか3年ほどで終わってしまいます。
なぜ失敗したのか――その理由は、政治のしくみと運用のズレにありました。

この記事では、

  • 建武の新政の組織の全体像
  • 中央と地方の統治体制
  • 実際の政治の運用と問題点

を、図解イメージとともにやさしく解説します。


目次

建武の新政とは何か?まずは超かんたんに

建武の新政=天皇が直接政治を行う「親政」への挑戦です。

鎌倉時代は、将軍と幕府が政治を動かしていました。
後醍醐天皇はこの体制を終わらせ、

「これからは、天皇を中心にした政治に戻そう」

と考えました。

そのために、

  • 摂政・関白
  • 院政(上皇による政治)

といった仕組みをやめ、
天皇が直接、国を動かす体制を作ったのが建武の新政です。


建武の新政の組織図(全体像)

まずは政治の全体像を見てみましょう。

建武の新政組織図
建武の新政組織図

ポイントは、
中央は天皇と公家が主導し、地方には武士も配置したという二重構造です。


中央の統治体制|京都で行われた政治

記録所(きろくしょ)|政治の司令塔

建武の新政で、もっとも重要な役所が記録所です。

  • 国の政治全体を決める
  • 重要な裁判や政策を扱う
  • 事実上の「政府の中心」

といった役割を持ち、
天皇の意思を政治に反映させる中枢機関でした。


雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)|土地トラブルの裁判所

鎌倉幕府が倒れたあと、
「この土地は誰のものか?」という争いが全国で起こりました。

その処理を担当したのが雑訴決断所です。

しかし、

  • 訴えが多すぎる
  • 判断に時間がかかる

という問題があり、政治の停滞を招きました。


恩賞方(おんしょうがた)|論功行賞の担当

鎌倉幕府を倒したとき、
多くの武士が命がけで戦いました。

その功績に報いる部署が恩賞方です。

ところが――

  • 土地が足りない
  • 公家が優先される

などの理由で、
武士たちは「報われていない」と感じるようになります。

これが、のちの反乱につながっていきました。


武者所(むしゃどころ)|治安と武士の統括

武者所は、

  • 京都の警備
  • 武士の統制

を担当する組織です。

しかし、実際の武力は武士が握っていたため、
武者所は思ったほど力を持てませんでした。


地方の統治体制|全国はどう治められたのか

国司と守護の併置|二重支配の問題

建武の新政では、各国に

  • 国司(貴族出身の役人)
  • 守護(武士のリーダー)

を同時に置きました。

本来は、

  • 国司=行政
  • 守護=軍事・治安

と役割分担するはずでしたが、
実際にはどちらが偉いのか分からない状態になり、
地方政治は混乱します。


鎌倉将軍府|関東を治める特別機関

鎌倉には、
鎌倉将軍府という新しい地方政府が作られました。

目的は、

  • 関東の武士をまとめる
  • 天皇の支配を広げる

ことでしたが、
ここで力をつけたのが足利尊氏でした。


陸奥将軍府|東北の統治拠点

東北地方には、陸奥将軍府が設置され、
北畠顕家らが派遣されます。

しかし、距離が遠く、
中央の命令が届きにくいという問題もありました。


実際の運用で何が起きたのか?

建武の新政は、理想は立派でした。
しかし、運用では次のような問題が積み重なります。


問題① 公家中心の政治で武士が不満

政治の中心にいたのは、
長年、政治経験を積んできた公家たちでした。

一方、戦いで国を救った武士たちは、
政治から遠ざけられていきます。

「命がけで戦ったのに、報われない」

この不満が、武士の心にたまっていきました。


問題② 土地問題が処理できない

  • 鎌倉時代の土地制度を否定
  • しかし、新しいルールが整っていない

このため、
全国で土地トラブルが爆発的に増加しました。

雑訴決断所は対応しきれず、
政治への不信感が高まります。


問題③ 地方統治がうまくいかない

国司と守護の二重支配により、

  • 命令が混乱
  • 責任の所在が不明

となり、
地方ほど建武の新政は機能しなくなっていきました。


なぜ建武の新政は失敗したのか?

結論をまとめると、失敗の理由は3つです。

  1. 理想が高すぎた
     → 天皇中心政治は、すでに武士社会には合わなかった
  2. 武士の不満を軽視した
     → 恩賞不足と政治参加の欠如
  3. 制度と現実のズレ
     → 組織は作ったが、運用が追いつかなかった

こうして1336年、
足利尊氏が反旗を翻し、建武の新政は終わります。


建武の新政が日本史に残したもの

建武の新政は短命でしたが、
日本史に大きな意味を残しました。

  • 天皇中心政治の最後の大きな挑戦
  • 武士の時代が本格的に始まる転換点
  • 南北朝時代への分かれ道

つまり建武の新政は、
**「古い時代」と「新しい時代」がぶつかった瞬間」**だったのです。


まとめ|建武の新政のポイント

  • 建武の新政は、後醍醐天皇による天皇親政の改革
  • 中央には
     → 記録所・雑訴決断所・恩賞方・武者所
  • 地方には
     → 国司+守護、鎌倉将軍府、陸奥将軍府
  • しかし
     → 公家優遇・武士の不満・土地問題・地方混乱
  • 結果
     → わずか3年で崩壊し、武士の時代へ
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