**元弘の変(げんこうのへん)/元弘の乱(げんこうのらん)**とは、
後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すために起こした全国的な戦いです。
この戦いによって、約150年続いた鎌倉幕府は滅亡し、
日本の政治は大きな転換点を迎えました。
元弘の変のポイントが一目でわかる
- 起きた時期:1331年〜1333年
- 時代:鎌倉時代の終わり
- 中心人物:後醍醐天皇
- 主な武将:楠木正成、新田義貞、足利尊氏 など
- 結果:鎌倉幕府が滅亡 → 建武の新政が始まる
元弘の変の基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 事件名 | 元弘の変(げんこうのへん)/元弘の乱 |
| 年代 | 1331年〜1333年 |
| 時代 | 鎌倉時代末期 |
| 主役 | 後醍醐天皇 |
| 重要人物 | 護良親王、楠木正成、新田義貞、足利尊氏 |
| キーワード | 倒幕、流罪、内乱、建武の新政 |
そもそも、なぜ元弘の変が起きたの?
当時の日本では、
天皇よりも鎌倉幕府(武士の政権)が政治の実権を握っていました。
後醍醐天皇は、
「天皇が政治の中心となる国を取り戻したい」
と考え、幕府を倒す=**倒幕(とうばく)**を目指します。
1324年の 正中の変 では計画がばれて失敗しましたが、
その思いをあきらめることはなく、
数年後、より大きな行動として始まったのが 元弘の変でした。
元弘の変で何が起きたのか(流れで理解)
① 後醍醐天皇が再び倒幕を決意する
1331年、後醍醐天皇は再び幕府に対して反旗を翻します。
今回は、ひそかな計画ではなく、実際に戦う覚悟での行動でした。
② 計画が発覚し、天皇は兵を挙げる
倒幕の動きは幕府側に知られ、
後醍醐天皇は京都を出て 笠置山(現在の京都府) に立てこもります。
ここから、武力による倒幕の戦いが本格的に始まりました。
③ 楠木正成らが幕府軍と戦う
後醍醐天皇のもとには、
楠木正成(くすのき まさしげ) などの武将が集まり、
各地で幕府軍と戦います。
とくに楠木正成は、
少ない兵で幕府の大軍を何度も苦しめ、
「知略の名将」として名を上げました。
④ 後醍醐天皇、流罪になる
戦いは一時、幕府側が有利になります。
後醍醐天皇は捕えられ、
隠岐(おき/現在の島根県)へ流罪となってしまいました。
ここで倒幕は終わった――
多くの人がそう思いました。
⑤ しかし倒幕の火は消えなかった
天皇が流された後も、
護良親王や楠木正成は戦いを続けます。
さらに、
- 足利尊氏(もともと幕府の有力武将)
- 新田義貞
といった武士たちが、次々に幕府から離反し、
倒幕の動きは全国規模へと広がっていきました。
⑥ 鎌倉幕府、ついに滅亡
1333年、
新田義貞の軍が鎌倉に攻め入り、
鎌倉幕府はついに滅亡します。
その後、後醍醐天皇は都に戻り、
天皇中心の政治である 建武の新政 を始めました。
なぜ元弘の変はそんなに重要なの?
元弘の変は、日本史の中でも
「時代が切り替わった瞬間」 といえる出来事です。
① 約150年続いた武士政権が終わった
源頼朝以来続いてきた鎌倉幕府が滅び、
日本の政治の形が根本から変わりました。
② 天皇中心の政治が復活した
後醍醐天皇は、
武士ではなく天皇が国を治める政治を目指し、
建武の新政をスタートさせます。
③ 室町時代への道が開かれた
その後、足利尊氏が新たな政権をつくり、
日本は室町時代へ進んでいきます。
つまり元弘の変は、
鎌倉時代から室町時代へ向かう橋渡しの戦いだったのです。
元弘の変の流れを一気に整理
歴史初心者の方は、
この流れだけ覚えれば大丈夫です。
- 正中の変(1324年)
後醍醐天皇の最初の倒幕計画 → 失敗 - 元弘の変(1331〜1333年)
倒幕の戦いが全国に広がる - 鎌倉幕府滅亡(1333年)
武士の政権が終わる - 建武の新政
天皇中心の政治が始まる
よくある疑問
元弘の変は何時代の出来事?
**鎌倉時代の終わり(鎌倉時代末期)**の出来事です。
「元弘の変」と「元弘の乱」は違うの?
ほぼ同じ意味で使われます。
一般に
- 元弘の変:出来事全体を指す呼び方
- 元弘の乱:とくに戦いの面を強調した呼び方
と考えると分かりやすいです。
元弘の変で、後醍醐天皇はどうなったの?
一度は隠岐に流されますが、
倒幕勢力の活躍によって都へ戻り、
建武の新政を始める天皇となります。
まとめ|元弘の変は「日本の政治がひっくり返った戦い」
元弘の変は、
ただの戦争ではありません。
- 武士の政権が終わり
- 天皇の政治がよみがえり
- 新しい時代への扉が開いた
――そんな
日本史の大転換点となる出来事でした。
この戦いを知ることで、
なぜ鎌倉時代が終わり、
室町時代へと進んでいったのか。
その流れが、きっと一本の線でつながるはずです。

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