唐崎の浜の戦いは護良親王率いる比叡山勢と六波羅探題軍の戦いです。
比叡山の麓で滋賀県大津市の唐崎浜でおこなわれました。
後醍醐天皇は仏教勢力を味方につけるため比叡山とも交流を強めていました。
そんな後醍醐天皇は自分の息子である護良親王を6歳の頃に比叡山に送っています。
そして、護良親王は20歳という年齢で比叡山の最高位である天台座主にまで登り詰めていました。
比叡山の僧兵は幕府が後醍醐天皇を島流しに、護良親王は死罪にしようとしていると知ると後醍醐天皇と護良親王を守るため幕府軍と戦うことを決意しました。
幕府との戦いが近づく中、後醍醐天皇の送った身代わりの花山院師賢が比叡山に到着します。
本物の後醍醐天皇は奈良へ逃げておりこのことを知るものは偽物を立てるという作戦を考えた護良親王と極一部の者たちだけです
比叡山の僧兵も本物の後醍醐天皇が来たと思い戦いの士気は上がりました。
実際、六波羅探題の軍が攻めて来ても退けることに成功しています。
しかし、六波羅探題の軍を退けた後に比叡山にいる天皇は偽物だということに気づきます。
天皇が偽物という事実は比叡山の僧兵たちの士気を大きく下げました。
中には戦うこと自体を止めてしまう者も現れます。だましていた護良親王に対しても不信感が生まれることになります。
護良親王は比叡山の僧兵の士気の低下、自身への不信感が強まっているということから次に六波羅探題軍が攻めてきたら防ぐことはできないと判断した護良親王は南の方へ姿を隠すことにします。
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