終わりのはずが、始まりだった
北条一族が滅び、
鎌倉幕府は終わりを迎えました。
しかし、日本の混乱は、
ここからさらに深まっていきます。
この出来事が、鎌倉幕府の滅亡です。
それは、ただの政権交代ではなく、
次の時代へ進むための、大きな揺れでもありました。
なぜ、幕府は終わったのか。
そして、なぜ終わっても平和は訪れなかったのか。
その理由を、ここからたどっていきましょう。
鎌倉幕府の滅亡とは何だったのか
鎌倉幕府の滅亡とは、
1333年(元弘3年)、倒幕軍を率いる新田義貞が鎌倉を攻め、
幕府の実権を握っていた北条一族が滅びた出来事を指します。
これにより、
150年続いた日本初の武士政権は幕を下ろしました。
しかし、この終わりは、
新しい安定の始まりではありませんでした。
なぜこの出来事が重要なのか
鎌倉幕府の滅亡が特別なのは、
「政権が終わった」以上の意味を持つからです。
この出来事を境に、
- 武士の政権がいったん終わる
- 天皇中心の政治が復活する
- しかし社会は安定しない
日本は、
大きな試行錯誤の時代に入っていきます。
鎌倉幕府はなぜ終わったのか
幕府の滅亡には、いくつもの理由が重なっていました。
① 元寇後の不満が積み重なっていた
元寇で日本は守られましたが、
戦った武士たちに十分な恩賞はありませんでした。
- 「命をかけたのに報われない」
- 「この政権についていって大丈夫なのか」
こうした不満が、
幕府への信頼を少しずつ削っていきます。
② 北条氏の政治への不満が高まっていた
鎌倉幕府の実権は、
将軍ではなく**北条氏(執権)**が握っていました。
この体制に対し、
- 権力が一部に集中している
- 意見が通らない
- 不公平だ
という不満が、武士たちの間で広がっていました。
③ 朝廷との対立が決定的になった
後醍醐天皇は、
天皇中心の政治を取り戻そうとします。
しかし幕府はこれを許さず、
対立はついに武力衝突へ。
これが、
倒幕運動の始まりでした。
④ 幕府軍が続けて敗れた
倒幕の戦いの中で、幕府軍は
- 久米川
- 分倍河原
- 関戸
- 竹ノ下
- 稲村ヶ崎
と、重要な戦いで次々と敗れます。
この敗北の連続が、
「幕府はもう勝てない」
という空気を決定づけました。
滅亡の瞬間|北条一族の最期
1333年、
新田義貞の軍が鎌倉へ突入。
幕府の実権を握っていた北条一族は、
東勝寺で集団自害しました。
これにより、
鎌倉幕府は名実ともに滅亡します。
しかし、この瞬間、
日本に平和が訪れたわけではありませんでした。
なぜ混乱は終わらなかったのか
幕府が滅びたあと、
日本はすぐに安定したのでしょうか。
答えは――いいえです。
建武の新政がうまくいかなかった
後醍醐天皇は、
天皇中心の政治を復活させます。
しかし、
- 戦った武士への恩賞が足りない
- 政治の進め方が貴族中心だった
- 現場の武士の不満が再び高まった
こうして、
新しい政権もすぐに揺らぎ始めます。
武士の時代は終わっていなかった
鎌倉幕府は滅びましたが、
武士が力を持つ時代そのものは終わっていませんでした。
やがて、
- 足利尊氏が台頭
- 室町幕府の成立
へと進み、
日本は再び武士の政権へ戻っていきます。
鎌倉幕府の滅亡が教えてくれること
鎌倉幕府の滅亡は、
「古い政権が終わった話」ではありません。
それは――
新しい時代へ進むための、痛みを伴う転換点でした。
- 不満をため続けた政治は長く続かない
- 現場の声を無視した政権は支えを失う
- 時代の流れに合わない仕組みは変わる
鎌倉幕府の滅亡は、
今にも通じる、大きな歴史の教訓を残しています。
まとめ|鎌倉幕府の滅亡とは何だったのか
鎌倉幕府の滅亡とは、
北条一族が滅び、
150年続いた武士の政権が終わった出来事です。
しかし同時にそれは、
日本が次の形を探し始めた、
混乱と再出発の始まりでもありました。
幕府の終わりは、
決して「平和のゴール」ではなく、
新しい時代へのスタートラインだったのです。
この流れをもっと知りたい人へ
- 鎌倉攻めとは?新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼした最後の戦い
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