日露戦争は、
日本の勝利で終わりました。
世界は驚き、
日本は列強の一員として認められます。
――それなのに、
日本国内では
失望と怒りが広がりました。
なぜ、勝ったのに満足できなかったのか。
その答えは、
ポーツマス条約の中にあります。
ポーツマス条約とは|日露戦争を終わらせた講和条約
ポーツマス条約とは、
1905年(明治38年)、
日露戦争の講和のために結ばれた条約です。
交渉の舞台となったのは、
アメリカの ポーツマス。
この条約によって、
日本とロシアの戦争は正式に終結しました。
条約の主な内容|日本は何を得たのか
ポーツマス条約で日本が得たものは、
決して少なくありません。
日本が獲得した主な内容
- 韓国に対する優越的地位
- 南満州の鉄道利権
- 樺太(サハリン)南部
これらは、
- 軍事
- 経済
- 外交
の面で、
日本の国際的地位を高める成果
でした。
それでも残った「最大の不満」
しかし、
国民が最も注目していた点は
別にありました。
賠償金が、ない。
日本は、
ロシアから一切の賠償金を得られなかった
のです。
この一点が、
勝利の評価を一変させました。
なぜ賠償金は取れなかったのか
政府が賠償金を断念した理由は、
極めて現実的でした。
日本側の事情
- 戦費は国家の限界に近い
- これ以上の戦争継続は困難
- 国債依存で財政が危うい
ロシア側の事情
- 首都は無傷
- 本土にはまだ余力
- 完全敗北ではない
つまり、
勝ってはいたが、
押し切れる余力はなかった
というのが、
戦争の実態でした。
政府と国民の認識のズレ
ここに、
大きなギャップが生まれます。
政府の認識
- これ以上戦えば国がもたない
- 現実的な講和が最善
国民の認識
- 連戦連勝の報道
- ロシアは完全に負けた
- 賠償金は当然
情報の非対称が、
期待だけを膨らませていた
のです。
仲介者の存在|セオドア・ルーズベルト
ポーツマス条約の交渉は、
アメリカ大統領
セオドア・ルーズベルト
の仲介によって行われました。
彼の目的は、
- 日本の完全勝利でも
- ロシアの完全敗北でもなく
東アジアの安定でした。
この国際的調整も、
日本の要求が抑えられた
一因となります。
不満はどこへ向かったのか|日比谷焼打ち事件へ
条約内容が伝わると、
国民の怒りは爆発します。
- 講和反対
- 政府批判
- 生活苦への不満
これが、
日比谷焼打ち事件へと
つながっていきました。
ここで重要なのは、
国民が、
外交の結果に直接反応した
という点です。
史実で整理する|ポーツマス条約の基本データ
締結年
- 1905年(明治38年)
場所
- アメリカ・ポーツマス
戦争
- 日露戦争の講和条約
日本の成果
- 南満州利権
- 樺太南部
- 韓国への影響力
最大の不満点
- 賠償金なし
なぜ「失敗の条約」と語られがちなのか
ポーツマス条約は、
しばしば「失敗」と語られます。
しかし実際には、
- 国際的評価は高い
- 日本の地位は大きく上昇
- 国家存続の危機を回避
という点で、
極めて現実的な成功
でもありました。
問題は、
国民感情との乖離
だったのです。
この条約が残したもの
ポーツマス条約は、
日本に二つの教訓を残しました。
- 戦争は、勝っても苦しい
- 外交は、感情では決められない
そして同時に、
国民の理解なしに、
政治は進められない
という現実を、
政府に突きつけました。
まとめ|ポーツマス条約は「勝利と限界を同時に示した講和」だった
ポーツマス条約は、
- 勝利の証
であると同時に、 - 国力の限界の表れ
でもありました。
勝ったのに満足できなかった理由は、
日本がまだ
「大国として戦争を最後まで支配できる段階」
ではなかったからです。
この条約は、
日本を列強へ押し上げながら、
同時に
次の不安と課題
を生み出した転換点でした。
次に読みたい関連記事
- 日露戦争とは?小さな国が世界を驚かせた戦い
- 日比谷焼打ち事件とは?勝利の裏にあった国民の怒り
- 大正デモクラシーとは?不満の先に何が生まれたのか

コメント