吉野作造は、なぜ今も語られるのか
大正時代、日本では
「政治は誰のためにあるのか」
という問いが、初めて社会全体で語られ始めました。
その中心にいた人物が、
**吉野作造**です。
吉野作造は、
政治家でも革命家でもありません。
それでも彼は、日本の民主主義の考え方そのものを変えた思想家でした。
では、吉野作造は
何をして、なぜ有名になったのでしょうか。
吉野作造の基本プロフィール
- 名前:吉野 作造(よしの さくぞう)
- 生年:1878年
- 没年:1933年
- 出身:宮城県
- 職業:政治思想家・学者
- 主な活動:東京帝国大学教授、雑誌での言論活動
- 活躍した時代:大正時代
吉野作造は何をした人物なのか
「民本主義」という考え方を打ち出した
吉野作造が最も有名なのは、
**民本主義(みんぽんしゅぎ)**という考え方を唱えたことです。
これは一言でいうと、
政治は、国民の幸福を目的として行われるべきだ
という思想です。
当時の日本は、
「天皇が政治の中心にある国(天皇主権)」でした。
そこで吉野作造は、
体制を否定せずに、民主主義を広める言い方を選びます。
- 「誰が政治をするか」ではなく
- 「何のために政治をするか」を重視する
この発想が、
多くの人に受け入れられました。
なぜ「民主主義」ではなく民本主義だったのか
当時の日本では「民主主義」は危険な言葉だった
大正時代の日本では、
「民主主義」という言葉は、
- 天皇制を否定する
- 社会を混乱させる
と受け取られる危険がありました。
そこで吉野作造は、
あえて 民本主義 という言葉を使います。
これは、
- 天皇主権は維持する
- しかし政治の目的は国民の幸福に置く
という、現実的で妥協的な思想でした。
👉 だからこそ、
思想が弾圧されにくく、社会に広がったのです。
吉野作造はなぜ有名になったのか
理由① 言論を通じて社会に影響を与えたから
吉野作造は、
- 新聞
- 雑誌
- 論文
を通じて、積極的に発言しました。
難しい理論ではなく、
一般の読者にも伝わる言葉で政治を語ったことが、
大きな影響力につながります。
理由② 大正デモクラシーの「理論的支柱」だったから
大正時代には、
- 政党政治の広がり
- 普通選挙への期待
- 労働運動・女性運動
といった動きが活発になります。
これらを
理論面で支えた存在が、吉野作造でした。
政治家が「実行」し、
民衆が「行動」する中で、
吉野作造は 「意味づけ」を与えた人物だったのです。
世界情勢は吉野作造に何を与えたのか
第一次世界大戦後の世界
吉野作造の思想の背景には、
世界的な民主主義の広がりがありました。
第一次世界大戦後、世界では、
- 王や皇帝の権力が弱まる
- 国民の声を重視する政治が広がる
- 民族自決・民主主義が理想として語られる
といった流れが生まれます。
特に影響が大きかったのが、
アメリカの民主主義思想です。
吉野作造は、
海外の政治思想を学び、
それを 日本の現実に合う形で翻訳しました。
吉野作造の思想の限界と評価
吉野作造の民本主義は、
すべての人に平等な政治参加を実現したわけではありません。
- 女性には選挙権がなかった
- 軍の独立性は残った
- 天皇制は維持された
そのため、
中途半端な民主主義
と批判されることもあります。
しかし同時に、
当時の日本で実現可能な、最大限の民主主義
だったとも評価されています。
昭和時代と吉野作造
昭和に入ると、
言論の自由は次第に制限されていきます。
吉野作造自身も、
自由な発言が難しくなる空気を感じていました。
彼は、
民主主義が簡単に失われてしまうことを
身をもって見た世代だったのです。
まとめ|吉野作造とはどんな人物だったのか
吉野作造とは、
- 民本主義を唱えた思想家
- 日本の民主主義を理論で支えた人物
- 世界の思想を日本に合わせて伝えた知識人
でした。
彼が問い続けたのは、
「誰が偉いか」ではなく、
**「政治は誰のためにあるのか」**という問題です。
その問いは、
今を生きる私たちにも、
静かに投げかけられています。
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