後醍醐天皇は、
「天皇が政治を動かす時代」を本気で取り戻そうとした人物です。
鎌倉幕府を倒すという大きな成功をおさめながら、
その後の政治では多くの反発を受け、
日本は南北朝時代という長い争いの時代へ進んでいきました。
なぜ、後醍醐天皇の挑戦はうまくいかなかったのか。
そして、彼はどんな思いで戦い続けたのか。
この記事では、
「鎌倉幕府を倒した天皇」後醍醐天皇の生涯を、
歴史初心者にもわかりやすく解説します。
後醍醐天皇ってどんな人?
後醍醐天皇は、1318年に即位した天皇です。
当時の日本は、鎌倉幕府が実権を握る時代でした。
しかし後醍醐天皇は、
「天皇が直接政治を行う時代を取り戻したい」
という強い理想を持っていました。
まずはここを押さえよう
- 在位:1318年〜1339年(途中で退位・復位の混乱あり)
- 立場:天皇
- 有名な功績:鎌倉幕府の打倒、建武の新政
- 活躍した時代:鎌倉時代末〜南北朝時代
鎌倉幕府を倒した天皇
後醍醐天皇は、幕府の力を弱めるため、
何度も倒幕計画を立てました。
最初は失敗し、
捕えられて隠岐(おき)へ流されます。
しかしそこで諦めず、
各地の武士に呼びかけ、再び立ち上がりました。
1333年、
新田義貞や足利尊氏の活躍によって、鎌倉幕府は滅亡。
天皇はついに、政治の主導権を取り戻します。
この場面のポイント
- 幕府に反対し続けた天皇
- 隠岐に流されても諦めなかった
- 武士の力を借りて幕府を倒した
建武の新政|理想と現実のギャップ
幕府滅亡後、後醍醐天皇は
**「建武の新政(けんむのしんせい)」**を始めます。
これは、天皇中心の政治を復活させる改革でした。
しかしこの政治は、
戦いで功績を立てた武士たちにとっては、
「報われない政治」でもありました。
土地や地位が十分に与えられず、
次第に不満が広がっていきます。
建武の新政の問題点
- 貴族中心の政治に戻した
- 武士への恩賞が少なかった
- 現実より理想を優先しすぎた
足利尊氏との決定的な対立
不満を抱えた武士たちの中心に立ったのが、
足利尊氏でした。
尊氏は、武士の声を背負って後醍醐天皇に反旗を翻します。
こうして日本は、
南朝(後醍醐天皇)と北朝(足利尊氏側)に分裂。
長い内乱の時代「南北朝時代」が始まりました。
後醍醐天皇は、
奈良・吉野へ移り、南朝の天皇として戦い続けます。
対立のポイント
- 天皇の理想 vs 武士の現実
- 後醍醐天皇は妥協しなかった
- 日本は二つの朝廷に分かれた
吉野での晩年と最期
南朝の天皇となった後醍醐天皇は、
吉野で苦しい戦いを続けます。
しかし、
かつてのような大きな力はなく、
次第に南朝は不利になっていきました。
1339年、
後醍醐天皇は吉野で亡くなります。
その死後も、
南北朝の争いは50年以上続くことになります。
晩年のポイント
- 吉野で南朝を率いた
- 苦しい戦いが続いた
- 争いを終わらせることなくこの世を去った
後醍醐天皇は、どんな人物だったのか?
後醍醐天皇の人生をたどると、
とても情熱的で、理想に生きた人だったことがわかります。
政治の現実よりも、
「あるべき姿」を大切にした天皇でした。
人物像まとめ
- 天皇中心の政治を本気で目指した
- 妥協せず、信念を曲げなかった
- その強さが、同時に混乱も生んだ
後醍醐天皇と南北朝時代のつながり
後醍醐天皇がいなければ、
南北朝時代は生まれなかったかもしれません。
彼の行動は、
鎌倉時代から室町時代への
大きな歴史の転換点を作りました。
歴史的な意味
- 天皇が主役となった最後の大きな政治改革
- 南北朝時代のきっかけを作った人物
- 室町幕府成立への流れを生んだ
まとめ|後醍醐天皇は「理想に生きた改革者」だった
後醍醐天皇は、
成功だけで語れる天皇ではありません。
しかし、
幕府の時代に終わりを告げ、
天皇が政治を動かそうとしたその姿勢は、
今も強く心に残ります。
だからこそ後醍醐天皇は、
「失敗した天皇」ではなく、
時代を本気で変えようとした改革者として語り継がれているのです。

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