理想が燃え上がり、すれ違いが広がった
後醍醐天皇が、新しい政治を始めます。
しかし、武士とのズレは次第に広がっていきました。
理想に燃えた改革は、
わずか3年で行き詰まります。
この出来事が、建武の新政です。
それは、鎌倉幕府の滅亡後、
日本が新しい形を探した、最初の挑戦でもありました。
なぜ、この改革はうまくいかなかったのか。
その理由を、ここからたどっていきましょう。
建武の新政とは何だったのか
建武の新政とは、
1333年、鎌倉幕府の滅亡後に、
後醍醐天皇が始めた政治改革のことです。
目指したのは、
天皇中心の政治の復活。
それまで続いていた武士の政権を終わらせ、
古代のような、天皇を中心とした国づくりを目標にしました。
なぜこの改革が重要なのか
建武の新政が歴史に残るのは、
成功したからではありません。
むしろ――
失敗したからこそ、意味がある改革でした。
この新政を通して、日本は
- 天皇の政治だけでは国は動かない
- 武士の力を無視できない
- 新しい政治には、現実とのバランスが必要
ということを、身をもって学んだのです。
後醍醐天皇が目指した「理想」
後醍醐天皇の理想は、はっきりしていました。
それは――
天皇が直接政治を行う国です。
- 武士の力に頼らない
- 貴族中心の政治を立て直す
- 朝廷の権威を取り戻す
鎌倉幕府を倒した勢いのまま、
天皇は、新しい時代を切り開こうとしました。
なぜ武士とのズレが生まれたのか
しかし、この理想は、
現実の社会と少しずつズレていきます。
① 恩賞が足りなかった
倒幕に命をかけた武士たちは、
当然、報酬を期待していました。
しかし実際には、
- 土地が十分に与えられない
- 評価が不公平に感じられる
という不満が広がります。
② 政治が貴族中心だった
建武の新政の中心は、
武士ではなく貴族でした。
そのため武士たちは、
- 意見が通らない
- 現場の実情がわかってもらえない
と感じるようになります。
③ 時代がすでに「武士の時代」だった
最大の問題は、
時代そのものが変わっていたことです。
すでに日本は、
- 戦を担うのは武士
- 地方を支えるのも武士
という社会になっていました。
そこに、
「天皇中心の政治」をそのまま戻そうとしても、
現実と合わなかったのです。
決定的な転機|足利尊氏の離反
建武の新政の流れを決定づけたのが、
足利尊氏の動きです。
尊氏は、もともと倒幕側の中心人物でした。
しかし、新政への不満を強め、ついに後醍醐天皇と対立します。
これにより、
- 朝廷側と武士側の溝が決定的に
- 内乱状態へ
- 新しい政権は一気に不安定に
こうして、
建武の新政は事実上、終わりを迎えました。
建武の新政はなぜ3年で終わったのか
まとめると、理由は大きく3つです。
- 理想が高すぎた
- 武士の現実を見ていなかった
- 時代の流れに逆らってしまった
改革は正しかったかもしれません。
しかし、成功する準備が足りなかったのです。
建武の新政が残したもの
建武の新政は、失敗に終わりました。
しかし、その失敗は、決して無駄ではありません。
この経験があったからこそ、
のちに生まれる室町幕府は、
- 武士の力を前提に
- 天皇と距離を取り
- 現実に合った政治の形
を選ぶことになります。
建武の新政は、
次の時代のヒントを残した改革だったのです。
まとめ|建武の新政とは何だったのか
建武の新政とは、
後醍醐天皇が始めた、理想に満ちた改革でした。
しかしその理想は、
武士の時代という現実と噛み合わず、
わずか3年で行き詰まります。
それでもこの挑戦は、
日本が新しい政治の形を探す中で、
欠かせない一歩でした。
建武の新政は、
失敗の中に、大きな意味を持つ改革だったのです。
この流れをもっと知りたい人へ
- 鎌倉幕府の滅亡とは?北条一族が滅びた瞬間
- 鎌倉攻めとは?新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼした最後の戦い
- 足利尊氏とは?なぜ後醍醐天皇と対立したのか
- 室町幕府の成立とは?新しい武士の政権の始まり

コメント