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千早城の戦い

1333年
六波羅探題の要請に応じ大規模の援軍を派遣した幕府軍は楠木正成の築城した山城を次々に攻略しました。吉野にいた護良親王も自害を覚悟するほど追い詰められましたが村上義日が身代わりとなりなんとか高野山に逃げ延びるとが出来ました。

幕府軍が次に狙うのは楠木正成のいる千早城です。
千早城を攻めていた軍にさらに上赤坂城、吉野城を攻めていた軍も加わることになり元から兵力さのある戦いに追い討ちをかけました。

戦闘初期の幕府軍の動きは物量で押し切るスタイルでした。細い道を陣も張らずに兵が駆け上がっていくのです。
並の武将ならそれでもなんとかなったかもしれませんが楠木正成は戦の天才です。大軍が駆け上がってくる様を見ても冷静に対処しました。

千早城は勾配もキツく谷も深いため攻めてくる道は予想がしやすい地形です。そこで、駆け上がってくる兵に岩を投げつけバランスを崩したところを弓矢で狙います。
岩や弓で討たれた兵が進軍の邪魔となり幕府軍の被害は増加していきました。

その様子を見た敵将の長崎高貞は勝手に戦闘を始めたものは厳罰に処すと命令します。この命令によって幕府軍は冷静さを取り戻すのです。
長崎高貞はイタズラに攻めても楠木正成の策にハマり被害が増すと判断し上赤坂城の戦いと同じ戦法を取ります。

上赤坂城の戦法とは水の補給経路の遮断です。
千早城は高い位置に築城されており水の確保が困難です。水は人が生きる上での生命線であるのでそこを絶たれてしまうと戦うことが出来なくなります。
実際に、上赤坂城の戦いでは水の補給経路を遮断することにより勝利しました。

長崎高貞は名越時見を大将任命し水の補給経路を見張らせます。
しかし、楠木正成が赤坂城の戦いを知らないはずはありませんでした。
山伏だけが知っている水場の情報を手に入れていた上に城の中に雨水をためられる場所を作っていたのです。

いくら待っていても動きのない楠木軍に名越軍は気が緩み始めました。
楠木正成は待っていたと言わんばかりに名越軍に奇襲を仕掛けます。

この奇襲により名越軍は旗を放り出して逃走しました。
楠木正成はこの旗を城に持ち帰り「この旗は名越軍が置いて行った旗だ」と名越時見を挑発します。

この挑発に名越家の人々はプライドを傷つけられ罠と知りながらも突撃し旗を奪い返そうとしました。
しかし、楠木正成には及ばず惨敗し撤退させられます。

この様子を見た長崎高貞は楠木正成に正攻法で戦いを挑んではいけないと考え兵糧攻めに転じます。
こうしてしばらく戦いという戦いはありませんでした。

戦いも起こらず暇になった幕府の軍勢は気が緩んでいきました。
一方、楠木正成はというと大量の藁人形を作り武器を持たせ山の麓に配置しました。

藁人形の配置が終わると兵を潜ませ幕府軍に対し大声を出します。
幕府軍はついに兵糧が尽き攻めてきたかと突撃しました。

幕府軍が攻めてくると潜ませていた兵は弓を射ながらゆっくり後退します。
敵が藁人形に近づく頃には楠木軍は後方に下がり巨石を転がし藁人形ごと敵を圧殺しました。

またしても楠木正成にしてやられた幕府軍は戦わずとも兵糧が尽きれば敵は勝手に崩壊すると兵糧攻めを徹底させました。
戦況が再び膠着します。しかし、数日経った頃に幕府軍に鎌倉から「早く敵を討て」と命令がきました。

他の城は落とし千早城も包囲し待っていればいずれ兵糧が尽き勝てる戦ですが鎌倉からの命令には従うしかありません。
そこで、幕府軍は深い崖に大きな橋を架け一気に敵地に攻め込むという作戦を立てます。
橋は京都から大工を呼び作らせることにしました。

そして、無事に橋は完成し敵地に突撃できる状態になったところまでは良かったのですが、血の気の多い坂東武士は我先にと手柄を求め橋を駆けていきました。
急ごしらえの橋に一気に兵が攻め込んだことにより兵は橋の上で渋滞します。

この好機を楠木正成が見逃すはずもなく橋の上に油をまき火を放って燃やしてしまいます。
橋は炎上し崩落すました。突撃していた多くの兵は燃え死んだり転落したりとまたしても幕府軍の突撃は失敗します。

数の上での劣勢を楠木正成は策で対抗。幕府軍もこれほど時間も被害も出るとは考えていませんでした。
そして、この戦いのありさまは各地の知れるところとなります。

幕府軍が大軍を出しても千早城を落とせない。この事実に各地の反幕府勢力は立ち上がります。
反幕府勢力は幕府の補給経路を遮断。これにより幕府は軍を維持できなくなりました。

楠木正成の奮闘が反幕府勢力を増強させ劣勢だった情勢を変えたのです。
千早城で戦っていた兵の指揮も低下し逃げ出す兵も続出します。

この後は、後醍醐天皇の隠岐からの脱出、足利尊氏の裏切り、新田義貞による鎌倉攻めがおこります。
ちなみに新田義貞は千早城攻めをしていた兵の中にいました。
新田義貞は幕府軍はもはやこれまでと見限り高野山にいた護良親王から幕府打倒の令旨をもらいます。

幕府滅亡も目前となってきました。

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