室町幕府の前期、将軍の権威は「将軍が強いから」だけで保てたわけではありません。
実務を回す管領が、守護大名たちを調整し、京都の政治を動かす――その中枢にいたのが斯波義将(しば よしまさ/正しくは「よしゆき」)です。
彼は若年の足利義満政権を支える一方で、管領交代の政変(康暦の政変)を主導する側にも回り、将軍権威を支えつつ、政治の火種も生んだ人物として語られます。
プロフィール|斯波義将の基本情報
- 立場:室町幕府の管領(南北朝〜室町初期の政権中枢)
- 読み:一般に「よしまさ」表記が多いが、項目説明では「よしゆき」が正しいとされる
- 出自:斯波高経の子(四男)
- 主要な役割:若い将軍を補佐しつつ、守護大名の利害調整・人事・都市支配を動かす“運営者”
この人物の要点:
「将軍の補佐役」ではあるが、実態は“政権の操作盤”を握る存在だった。
何をしたか|幕府政治の中枢を「動かした」実務
2-1. 康暦の政変で管領へ——将軍権威の“支柱”になる
1379年の康暦の政変で、細川頼之が失脚し、義将が管領に就任します。
ここは「将軍が主導して改革した」というより、守護大名の力学の中で、将軍政権の骨格が組み替えられた局面です(=将軍権威を支えるが、同時に“火種”を残す)。
2-2. 洛中支配の充実——“京都を押さえる”政治へ
義将は義満を助け、洛中支配(京都の統治)を充実させたと説明されます。
室町前期は、地方の守護が強くなるほど「京都の統治=幕府の顔」が重要になり、都市支配を整えること自体が権威の土台になります。
2-3. 禅宗統制の間接化——僧録任命で宗教界も整える
義将の政治で特徴的なのが、僧録の任命による禅宗統制を“間接化”したことです。
寺社勢力は政治・経済とも密接なので、ここを整えるのは「秩序を作る仕事」でした。
斯波義将の時代に何が起こったか|要点年表
- 1362年:父の後見で幕府執事となり、越中守護も担う(若くして中枢へ)
- 1366〜1367年:政変で越前へ退き、その後赦免され復帰
- 1379年:康暦の政変→管領就任(頼之排斥の中心)
- 1391年:一度管領を辞すが、後に再任し応永期まで影響を残す
- 1409年:短期間ながら三たび管領となる
国内情勢|“若い将軍”を支える政治は、なぜ揉めるのか
義満が若年期だったこともあり、幕府中枢は「将軍個人のカリスマ」より、管領と守護大名の合議・力関係で動きやすい状況でした。
この構造は、政権を安定させる一方で、管領交代をめぐる圧力政治を生みやすい――康暦の政変はその典型です
敵対勢力・味方|“支え”と“火種”が同居する勢力図
味方(義将を支えた側)
- 将軍政権(義満)と、その政権運営を支える守護層(利害が一致する範囲で)
- 斯波氏の守護領国基盤(越前・尾張・遠江など、のちの勢力拡大の土台)
敵対(対立軸になった側)
- 頼之を軸にした旧体制・細川側(管領交代そのものが対立を生む)
※ここで大事なのは「誰が絶対悪か」より、権力の中心(管領)をめぐる争いが、将軍権威を強めも弱めもするという構造です。
影響力|斯波義将が残したもの
支えになった点:幕府政治の“運営”を安定させた
洛中支配の充実、禅宗統制の間接化など、政権が回るための制度・運用を動かした功績がまとめられます。
火種になった点:権力闘争の手法を固定化した
康暦の政変のように、守護大名が圧力をかけて中枢を入れ替える前例は、以後の政治にも“やり方”として影を落とします。
義満が細川・斯波の対立を利用して権力を掌握した、という説明もあり、将軍権威の形成が「対立込み」で進んだことが見えます。
まとめ|斯波義将は「将軍権威の土台」でも「政治の火種」でもあった
斯波義将は、管領として若い義満政権を運営面から支え、京都支配や禅宗統制などで幕府政治の中枢を動かした人物です。
一方で、康暦の政変で頼之排斥の中心となったように、権力闘争の渦中にも立ち、将軍権威を支えながら火種も残しました。
次におすすめ
「管領が変わると、幕府の空気が変わる」→ 康暦の政変とは?頼之が追放された政変
「義満政権の“若年期”を支えた実務」→ 細川頼之|管領:将軍を支えつつ、幕府政治の中枢を動かした
「義将が支えた“将軍の権威”そのもの」→ 足利義満とは?幕府権力を固めた3代将軍
参考文献・資料
コトバンク「斯波義将」項(経歴・政策要点・管領在任など)
Wikipedia「明徳の乱」項(康暦の政変と義将就任の位置づけ)
Cambridge(学術概説)Muromachi local government(管領・守護の力学の説明)

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