鎌倉時代の政治の中心は「鎌倉」――
そう思っていませんか?
実は、京都にも幕府の重要拠点がありました。
それが 六波羅探題(ろくはらたんだい) です。
この記事では、
歴史初心者の方でも楽しみながら理解できるように、
- 六波羅探題って何?
- なぜ作られたの?
- どんな仕事をしていたの?
を、やさしく・わかりやすく解説します。
六波羅探題ってなに?まずはここからサクッと理解しよう
六波羅探題とは、
**鎌倉幕府が京都に置いた出先機関(=出張所のような役所)**です。
イメージすると――
鎌倉幕府=本社
六波羅探題=京都支店
京都には天皇や貴族が集まる朝廷がありました。
そのため幕府は、
「京都もきちんと管理しなければ」と考え、
六波羅探題を置いたのです。
どうして京都に武士の役所ができたの?その理由は「承久の乱」
六波羅探題が生まれた最大のきっかけは、
**1221年の承久の乱(じょうきゅうのらん)**でした。
このとき、
後鳥羽上皇が鎌倉幕府に反旗を翻したのです。
後鳥羽上皇は、当時どんな思いで行動したのでしょうか。
→ 後鳥羽上皇とは?何をした人?
結果は幕府の勝利。
しかし幕府側は強く思いました。
「もう京都で反乱は起こさせない」
そこで、
朝廷の動きをすぐに察知できる拠点として
六波羅探題が設置されたのです。
つまり六波羅探題は、
**承久の乱のあとに生まれた“安全装置”**だったと言えます。
六波羅探題のしごとって?実は“なんでも屋”だった!
六波羅探題の役割は、ひとことで言えば
「京都のなんでも担当」。
特に大切だった仕事は、次の3つです。
① 朝廷をそっと監視する役
天皇や貴族が集まる朝廷が、
再び幕府に逆らう動きを見せないか――。
六波羅探題は、
政治の空気を読む見張り役として重要な存在でした。
② 京都の治安を守るボディーガード役
当時の京都には、
今のような警察制度はありません。
事件や争いが起きれば、
六波羅探題の武士が出動して町を守りました。
③ 西日本の武士をまとめる司令塔
鎌倉幕府の支配は関東だけでなく、
西国(西日本)にも広がっていました。
六波羅探題は、
西の武士たちをまとめる
現地リーダーでもあったのです。
京都にはリーダーが2人いた!?六波羅探題の不思議なしくみ
六波羅探題には、
少し変わった特徴がありました。
それが――
トップが2人いたことです。
この2人は
- 北方(きたかた)
- 南方(みなみかた)
と呼ばれました。
なぜ2人だったのかというと、
- 仕事が多すぎた
- 権力が1人に集中しないようにするため
などの理由があったと考えられています。
誰がやってたの?六波羅探題を動かした北条一門
六波羅探題のトップを務めたのは、
ほとんどが 北条氏の一族でした。
これは幕府の考えをよく表しています。
「京都の守りは、絶対に信頼できる身内に任せる」
六波羅探題は、
ただの地方役所ではなく、
幕府の中枢に近い重要ポストだったのです。
六波羅探題の最期…鎌倉幕府と一緒に消えた理由
1333年、
鎌倉幕府は滅亡します。
そのとき、
六波羅探題も役目を終えました。
幕府がなくなれば、
幕府の京都拠点も不要になる――
とても自然な流れです。
こうして六波羅探題は、
約100年間の歴史に幕を下ろしました。
六波羅探題をひとことで言うと?今日のポイントまとめ
最後に、内容をコンパクトに整理しましょう。
- 六波羅探題とは?
鎌倉幕府が京都に置いた出先機関 - できた理由は?
承久の乱のあと、朝廷を監視するため - 主な仕事は?
朝廷の監視/京都の治安維持/西国の武士の統率 - 誰が担当した?
北条一門のエリート武士 - いつ終わった?
鎌倉幕府滅亡とともに消滅(1333年)
六波羅探題は、
鎌倉と京都をつなぐ“影の主役”。
この存在を知ると、
鎌倉時代の政治がぐっと立体的に見えてきます。
六波羅探題をきっかけに、鎌倉時代の流れをまとめて知りたい方はこちら。
→ 鎌倉時代まとめ

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