たった3年で日本がひっくり返った!?建武の新政の物語
**建武の新政(けんむのしんせい)**は、わずか3年で終わった政治ですが、
この短い期間に起きた出来事が、日本を 南北朝時代、そして 室町時代 へと導いていきました。
「どうしてそんなに早く終わったの?」
「そのあと日本はどうなったの?」
そんな疑問を解きながら、建武の新政の流れを物語のように見ていきましょう。
幕府が消えた日|すべてが動き出した瞬間
1333年、約150年続いた鎌倉幕府が滅びます。
このとき中心にいたのが 後醍醐天皇 です。
後醍醐天皇は、
「武士の時代を終わらせ、天皇が政治の中心に戻るべきだ」
と考え、武士の力を借りて幕府を倒しました。
こうして始まったのが、建武の新政。
久しぶりに、天皇が政治の表舞台に戻ってきた瞬間でした。
ここがポイント
- 鎌倉幕府が滅亡
- 後醍醐天皇が政治の主導権を握る
- 天皇中心の政治がスタート
夢いっぱいの新政スタート|でも、ちょっとズレていた?
幕府がなくなり、後醍醐天皇は新しい政治を始めます。
目指したのは、朝廷が国を動かす昔ながらの政治でした。
ところが実際の政治では、
武士よりも 公家(朝廷の貴族) が重視される形になります。
天皇にとっては「理想の政治」でも、
武士たちから見ると
「自分たちはもう必要ないの?」
という気持ちが、少しずつたまっていきました。
この時期の動き
- 天皇が直接政治を行う体制をつくる
- 鎌倉幕府の制度をなくす
- 朝廷中心の政治へ切り替え
- 昔の律令政治を理想に掲げる
空気が変わった…|武士たちの本音があふれ出す
建武の新政が進むにつれて、
幕府を倒すために戦った武士たちの間に、不満が広がっていきます。
武士たちは、
「命がけで戦ったのだから、土地や地位をもらえるはず」
と考えていました。
ところが実際には、その期待にこたえられるほどの恩賞が足りなかったのです。
さらに、武士のリーダー的存在だった 足利尊氏 も、
しだいに天皇の政治に疑問を持つようになります。
このころの空気
- 武士へのごほうびが足りない
- 公家ばかりが大切にされていると感じる
- 足利尊氏と後醍醐天皇の関係が悪化
歴史が動いた分かれ道|足利尊氏、ついに決断
1335年ごろから、足利尊氏は天皇の命令に従わず、
武士たちの支持を集めながら独自に動き始めます。
そして1336年、尊氏はついに 京都を制圧。
ここで、建武の新政は事実上終わりました。
後醍醐天皇は都を追われ、
奈良の 吉野 へと移ります。
決定的だった出来事
- 足利尊氏が天皇に反旗
- 京都をおさえ、武士の政権づくりへ
- 後醍醐天皇は吉野へ
天皇が二人いる時代!?日本が分かれた60年
後醍醐天皇が吉野に移ったことで、
日本には 2つの朝廷 が生まれます。
- 京都の 北朝
- 吉野の 南朝
この状態が続いた時代を、南北朝時代 といいます。
日本は長いあいだ、
「どちらが本当の天皇なのか」で揺れ続けることになります。
南北朝時代の特徴
- 朝廷が2つに分裂
- 武士たちはそれぞれの側について戦う
- 国全体が不安定な時代へ
そして武士の時代へ|室町時代のはじまり
南北朝の争いの中で、
武士たちは「やはり政治は武士が行うべきだ」と考えるようになります。
そして足利尊氏は、
のちに 室町幕府 を開きます。
こうして日本は、
天皇中心の政治から、再び 武士の時代 へと戻っていきました。
建武の新政は、
天皇中心の政治をもう一度目指した、最後の大きなチャレンジだったのです。
ここだけ読めばOK!建武の新政ダイジェスト
建武の新政・流れまとめ
- 1333年 鎌倉幕府が滅びる → 後醍醐天皇が政治を主導
- 1333〜34年 天皇中心の政治がスタート
- 1334〜35年 武士の不満が高まる
- 1336年 足利尊氏が反乱 → 京都制圧
- 1336年 後醍醐天皇が吉野へ → 南北朝時代へ
- その後、室町幕府が成立
さいごに|建武の新政が教えてくれること
建武の新政は短い期間でしたが、
日本の歴史に大きな足跡を残しました。
天皇中心の政治に戻ろうとした理想と、
武士が支えてきた現実の政治。
そのズレが、建武の新政を失敗に導いたともいえます。
しかし、この失敗があったからこそ、
日本は次の時代――室町時代 へ進むことができました。
建武の新政は、
「理想」と「現実」がぶつかった3年間のドラマだったのです。

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