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建武の新政の流れをわかりやすく解説|失敗の理由と南北朝時代へのつながり

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建武の新政(けんむのしんせい)は、1333年から1336年のわずか3年間、後醍醐天皇が武士の力を借りて鎌倉幕府を倒したあとに始めた「天皇による政治の復活」の試みです。

この3年間で日本は、「天皇が国の中心に戻った時代」から「2つの朝廷が並立する南北朝時代」へと大きく揺れ動きました。そして、その混乱の先に待っていたのが、室町幕府の誕生です。

ひこまる

お師匠!建武の新政って、3年で終わっちゃったんですよね。天皇がせっかく政治を取り戻したのに、なんでそんなに早く終わったんですか?

やたまる

そこがポイントじゃ、ひこまる。後醍醐天皇の「理想」は本物だった。しかしその理想を実現しようとした方法が、時代の現実と大きくズレておった。それが建武の新政のすべてといってよいぞ。

目次

建武の新政とは何か

建武の新政とは、1333年に鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が、「天皇が直接国を治める政治」を復活させようとした政治改革のことです。1333年から1336年の約3年間続きましたが、武士の反発と足利尊氏との決裂により、短命に終わりました。

後醍醐天皇はなぜ立ち上がったのか

鎌倉幕府は、なぜ弱くなっていたのか

14世紀はじめ、鎌倉幕府はじわじわと力を失っていました。最大の要因は元寇(モンゴル帝国の襲来)です。日本は元軍を退けたものの、幕府は外敵との戦いに参加した武士たちに十分な恩賞(土地)を与えることができませんでした。

幕府と武士の間には「御恩と奉公」という信頼関係がありましたが、恩賞が出なければこの関係は崩れます。「命がけで戦ったのに報われない」という不満が、武士の間に広がっていきました。

さらに、皇統が「大覚寺統」と「持明院統」に分裂する「両統迭立」という問題も起きていました。後醍醐天皇は大覚寺統の天皇でしたが、幕府の影響下では自分の立場が弱く、強い権力を持てずにいたのです。

後醍醐天皇が目指したもの

後醍醐天皇が理想としたのは、平安時代の醍醐天皇・村上天皇の「延喜・天暦の治(えんぎてんりゃくのち)」でした。天皇が直接政治を動かす、律令に基づく古い形の親政です。

その理想を実現するため、後醍醐天皇は足利尊氏・新田義貞・楠木正成らの武将の力を借りて鎌倉幕府を打倒します。1333年、約150年続いた鎌倉幕府はついに滅亡しました。

建武の新政の流れ

建武の新政は、以下のような流れで展開しました。

1333年鎌倉幕府滅亡。後醍醐天皇が政治の表舞台へ
建武の新政 開始天皇中心の新しい政治体制を整備(記録所・雑訴決断所・武者所など)
〜1334年武士の恩賞不足・公家優遇への不満が高まる
1335年中先代の乱(北条時行が鎌倉を一時占拠)。足利尊氏が帰京命令を無視し独自行動へ
1336年湊川の戦い。楠木正成戦死。後醍醐天皇が都を離れる
南北朝時代 開始後醍醐天皇が吉野(南朝)へ。足利尊氏が京都(北朝)の光明天皇を擁立

建武の新政の政治体制(記録所・雑訴決断所・武者所の詳細な組織図)については、こちらの記事でわかりやすく解説しています。

建武の新政の政治体制とは?組織図と中央・地方の統治をやさしく解説

武士が不満を持った理由

幕府を倒した武士たちは、「自分たちが天皇を支えたのだから、相応の見返りがあるはずだ」と期待していました。ところが実際の政治では、公家(貴族)が中心となり、武士の地位は相対的に低くなります。しかも、期待していた恩賞も十分に与えられませんでした。

後醍醐天皇の目指した政治は「理想」でした。しかし武士たちの現実の期待とは、大きなズレがありました。

比較項目後醍醐天皇の理想武士の現実の期待
政治の中心天皇・公家が国を治める武士の地位・権益を守る政治
恩賞古い制度に沿った整理戦功に見合う土地・地位の付与
政治の進め方律令制度に基づく古い形を復活実務的な統治の継続
武士の扱い公家の補佐役として位置づけ政治の主体として尊重
ひこまる

えっ……命がけで戦ったのに、ちゃんとした恩賞がもらえなかったんですか?それは……武士たちも不満ですよね。

やたまる

そうじゃ。しかもそれは、鎌倉幕府が滅んだ理由とも同じだったんじゃぞ。”恩賞が足りない”という不満が、鎌倉幕府を倒した大きな理由の一つでもあった。つまり、まったく同じ失敗をくり返してしまったということじゃな。

足利尊氏との対立

倒幕の中心にいた武将・足利尊氏は、建武の新政が進む中で後醍醐天皇との関係が次第に悪化していきます。

1335年、鎌倉幕府の残党である北条時行が「中先代の乱」を起こし、鎌倉を一時的に占拠します。足利尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を無視して独自に鎌倉を奪還し、武士たちに独自の恩賞を与えました。

「武士のために動く」という足利尊氏の姿は、不満を持った武士たちの心をとらえます。一方で後醍醐天皇にとっては、これは反逆行為に等しいものでした。

1336年、後醍醐天皇は新田義貞・楠木正成らに尊氏討伐を命じます。しかし摂津の湊川での決戦で楠木正成は敗死し、後醍醐天皇は都を離れることを余儀なくされました。

なお、建武の新政の内部では護良親王(もりよししんのう)も重要な役割を果たしていました。後醍醐天皇の皇子として倒幕に貢献した人物ですが、足利尊氏との対立が激化し、最終的に悲劇的な最期を迎えます。詳しくは護良親王の記事をご覧ください。

南北朝時代へのつながり

都を追われた後醍醐天皇は、奈良の吉野へ移り、そこに「南朝」の朝廷を開きます。一方、京都では足利尊氏が光明天皇を擁立し「北朝」の朝廷が成立。ここから日本に「2つの朝廷」が並立する南北朝時代が始まります。

この時代の最大の問題は「正統性(どちらが本当の天皇か)」でした。後醍醐天皇は「三種の神器は南朝にある」と主張し、北朝の正統性を否定しました。この正統性をめぐる争いが、60年近く続く南北朝の対立の本質です。

南北朝時代の詳しい流れは、こちらで解説しています。

南北朝時代とは?日本史で唯一「二つの朝廷」が並立した時代

建武の新政が失敗した3つの理由

理由内容
① 恩賞問題命がけで戦った武士たちに、十分な土地・地位が与えられなかった
② 政治の非現実性150年かけて定着した武士の制度を短期間で「天皇中心」へ強引に戻そうとした
③ 足利尊氏との決裂最大の武力を持つ足利尊氏が、武士の代表として後醍醐天皇と対立した

なぜ後醍醐天皇の理想が3年で行き詰まったのか、後醍醐天皇の視点からさらに詳しく読みたい方はこちら。

建武の新政とは?後醍醐天皇の理想が3年で行き詰まった理由

建武の新政が後世に残したもの

建武の新政は、失敗した政治改革です。しかし、この3年間が日本史に残した意味は小さくありません。

後醍醐天皇が示した「天皇の権威への強いこだわり」は、南北朝時代を通じて武士たちにも「正統性とは何か」を問い続けさせました。また、足利尊氏が「武士のための政治」を実現しようとした動きが、そのまま室町幕府の設立へとつながっています。

「理想を貫くことと、現実の中で人々を動かすこと、どちらが大切か」——建武の新政は、この問いを日本史に刻んだ出来事でもあります。

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建武の新政をもっと深く理解したい方へ、以下の順番でお読みいただくと、南北朝テーマの全体像がつかめます。

📖 建武の新政をより深く知る

建武の新政の政治体制とは?(組織図・記録所・雑訴決断所の詳細)

なぜ建武の新政は失敗したのか?後醍醐天皇視点の詳細解説

📖 この時代の人物を知る

後醍醐天皇とは?理想に挑んだ天皇の生き方
足利尊氏とは?室町幕府を開いた武将の決断
護良親王とは?建武の新政を支え悲劇に倒れた皇子

📖 この時代の流れをつかむ

南北朝時代とは?日本史で唯一「二つの朝廷」が並立した時代

まとめ|建武の新政は、理想が現実と衝突した3年間だった

建武の新政は、後醍醐天皇の「天皇による政治の復活」という強い理想から始まりました。その理想は本物でした。しかし、150年かけて定着した武士の時代を一気にひっくり返そうとしたことで、社会は混乱し、武士の不満が爆発しました。

足利尊氏が武士の代表として後醍醐天皇と決裂したことで、日本はふたつの朝廷に分かれる「南北朝時代」へと突入していきます。そしてその争いの果てに生まれたのが、室町幕府という新しい武士の政権でした。

建武の新政が3年で終わった理由は、「理想の正しさ」と「理想の実現方法の現実性」が別物であることを、歴史が証明したということかもしれません。

次のテーマ「南北朝時代」では、天皇と武士、南朝と北朝が60年にわたってどう争ったのかを読み解きます。

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