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安政の大獄とは?将軍継嗣問題と条約調印をめぐる政治対立と処罰

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安政の大獄あんせいのたいごくとは、1858年(安政5年)から1859年にかけて、幕府が将軍継嗣問題しょうぐんけいしもんだいや条約調印をめぐる反対勢力を広く処罰した政治事件です。

重要なのは、単なる「大老・井伊直弼いいなおすけによる反対派弾圧」として終わらせず、次の将軍を誰にするか外国との条約をどう結ぶか、そして幕府と朝廷が政治判断をどう分担するかという三つの問題が重なった事件として捉えることです。

目次

この記事でわかること

  • 安政の大獄あんせいのたいごくとは何か
  • 将軍継嗣問題しょうぐんけいしもんだいと条約問題がどう結びついたのか
  • 事件から桜田門外さくらだもんがいの変までの流れ
  • 幕府と朝廷の関係にどのような変化が生じたのか

安政の大獄あんせいのたいごくとは

安政の大獄あんせいのたいごくでは、大老・井伊直弼いいなおすけを中心とする幕府が、一橋派ひとつばしはの大名や公家、志士などを処罰しました。対象となった人々の立場や考えは一様ではありませんが、将軍後継の決定や日米修好通商条約の無勅許ちょっきょ調印に反対した人々が多く含まれていました。

処罰が大名・公家から志士まで広い範囲に及んだことで、幕府の政治運営に対する反発が強まりました。安政の大獄あんせいのたいごくは、幕末の政治対立が武力衝突へ近づいていく過程を理解するうえで重要な出来事です。

なぜ起きたのか

将軍継嗣問題しょうぐんけいしもんだい南紀派なんきは一橋派ひとつばしはの対立

13代将軍・徳川家定とくがわいえさだには後継となる実子がいなかったため、次の将軍を誰にするかが大きな政治問題になりました。

立場推した人物主な支持者
南紀派なんきは紀伊藩主・徳川慶福とくがわよしとみ(のちの徳川家茂とくがわいえもち井伊直弼いいなおすけら譜代大名
一橋派ひとつばしは一橋慶喜島津斉彬しまづなりあきら松平慶永まつだいらよしながら雄藩大名

この対立には候補者の年齢や能力だけでなく、譜代大名を中心とする従来の幕府政治を重視するのか、有力諸藩の意見をより取り入れるのかという政治運営の違いも関わっていました。最終的に慶福が14代将軍・徳川家茂とくがわいえもちとなります。

条約調印と朝廷の勅許ちょっきょをめぐる対立

黒船来航後、幕府はアメリカ総領事ハリスから通商条約の締結を迫られました。幕府は朝廷の勅許ちょっきょを得ようとしましたが、勅許ちょっきょを得ないまま1858年に日米修好通商条約へ調印します。

外交を担当してきた幕府が朝廷に判断を求めた一方、最終的には勅許ちょっきょなしで調印したため、条約の内容だけでなく、政治判断の正当性も争点になりました。将軍継嗣問題しょうぐんけいしもんだいでの対立と条約問題への反発が重なり、処罰へつながっていきます。

安政の大獄あんせいのたいごくまでの流れ

主な出来事政治上の意味
1853年ペリー艦隊が来航幕府は開国と外交への対応を迫られる
1858年井伊直弼いいなおすけが大老に就任将軍継嗣問題しょうぐんけいしもんだいと条約問題の決着を進める
1858年日米修好通商条約に無勅許ちょっきょで調印朝廷や反対派との対立が深まる
1858年徳川家茂とくがわいえもちが14代将軍となる南紀派なんきは将軍継嗣問題しょうぐんけいしもんだいを決着させる
1858〜59年安政の大獄あんせいのたいごく大名・公家・志士らが処罰される
1860年桜田門外さくらだもんがいの変井伊直弼いいなおすけが暗殺され、幕府の権威が揺らぐ

誰がどの立場で関わったのか

人物・集団立場・関わり
井伊直弼いいなおすけと幕府首脳条約調印と徳川家茂とくがわいえもちの将軍就任を進め、反対派を処罰した
南紀派なんきは徳川慶福とくがわよしとみ(家茂)を将軍後継に推した
一橋派ひとつばしは一橋慶喜を推し、井伊直弼いいなおすけの政治方針と対立した
朝廷・公家条約調印や幕府の政治判断をめぐって幕府との緊張を深めた
志士尊王攘夷そんのうじょういなど立場はさまざまだが、幕府への批判や政治活動を理由に処罰された者がいた

処罰された人々をすべて同じ思想の集団として捉えるのは適切ではありません。将軍後継、条約、朝廷との関係など、それぞれが重視した問題には違いがありました。

桜田門外さくらだもんがいの変とその後

安政の大獄あんせいのたいごくへの反発が続くなか、1860年、井伊直弼いいなおすけは江戸城桜田門外で水戸浪士らに襲撃され、命を落としました。これが桜田門外さくらだもんがいの変です。

幕府の最高責任者である大老が江戸城の近くで暗殺されたことは、幕府の統制力と権威に大きな打撃を与えました。その後、幕府は朝廷(公)と幕府(武)の協調を目指す公武合体こうぶがったいを進め、徳川家茂とくがわいえもち孝明天皇こうめいてんのうの妹・和宮かずのみやの婚姻が1862年に実現します。

ただし、安政の大獄あんせいのたいごくだけで幕府が倒れたわけではありません。対外圧力、国内の政治対立、朝廷の政治的影響力の高まりなどが重なり、その後の大政奉還王政復古おうせいふっこ大号令だいごうれいへ続く幕末の流れが形づくられました。

安政の大獄あんせいのたいごくで誤解しやすい点

単純化した見方理解するときの注意点
条約への反対者だけが処罰された将軍継嗣問題しょうぐんけいしもんだいや朝廷との関係をめぐる対立も重なっていた
処罰された人は全員同じ思想だった大名・公家・志士では立場や目的が異なっていた
井伊直弼いいなおすけ一人の判断だけで幕府が崩れた幕府権威の低下には対外圧力や複数の政治対立が関わった
桜田門外さくらだもんがいの変で幕府政治が終わった権威は揺らいだが、幕府は公武合体こうぶがったいなどで立て直しを図った

まとめ

安政の大獄あんせいのたいごくは、将軍継嗣問題しょうぐんけいしもんだいと条約調印をめぐる対立のなかで、幕府が反対勢力を広く処罰した事件です。背景には、外交方針だけでなく、幕府内部の権力関係や朝廷との関係変化がありました。

強い処罰で対立を抑えようとした結果、反発は桜田門外さくらだもんがいの変へとつながり、幕府の権威は大きく揺らぎます。安政の大獄あんせいのたいごくを理解することは、なぜ幕末に政治の中心が幕府だけでは決められなくなっていったのかを考える手がかりになります。

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参考資料

  • 国史大辞典「安政の大獄あんせいのたいごく」「井伊直弼いいなおすけ
  • 日本大百科全書「安政の大獄あんせいのたいごく」「桜田門外さくらだもんがいの変」
  • 『テーマ別だから政治も文化もつかめる江戸時代』
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