明治維新、その後
維新の三傑の最期
西郷・木戸・大久保、明治維新後に分かれた三つの道
江戸幕府を倒し、新しい国をつくった三人。しかし、幕府という共通の相手が消えたあと、三人が選んだ道は少しずつ分かれていきました。
はじめに
新しい国をつくった三人は、同じ場所で最期を迎えなかった
1877年(明治10年)1月、木戸孝允が病に倒れました。
その翌月、西郷隆盛が鹿児島で兵を挙げ、西南戦争が始まります。木戸は病床から戦争の行方を案じながら5月に病没。9月には西郷が城山で最期を迎えました。
そして翌年5月、政府の中心に残った大久保利通も、東京の紀尾井坂で暗殺されます。
木戸の死から大久保の死まで、353日。
明治政府は、わずか1年足らずで「維新の三傑」をすべて失ったのです。
序章
三人は何を成し遂げたのか
西郷と大久保は薩摩藩、木戸は長州藩の出身です。薩摩と長州は、もともと京都政局で対立していました。それでも幕府の長州征討が迫るなか、両藩は協力へ向かいます。1866年(慶応2年)の薩長同盟は、幕府に対抗できる大きな政治・軍事勢力を生みました。
その後、三人は倒幕と戊辰戦争を経て、明治政府の中心へ進みます。1869年の版籍奉還、1871年の廃藩置県では、藩を前提とする政治を終わらせ、政府が全国を直接治める仕組みをつくろうとしました。
倒幕だけが明治維新ではありません。幕府を倒したあと、本当に一つの国をつくれるのか。三人は、その難しい仕事にも関わったのです。
この記事での見取り図
分岐点
幕府が消えたあと、三人の道が分かれ始める
倒幕の時代には、「幕府に代わる新しい政治をつくる」という共通の目的がありました。ところが、明治政府が成立すると、次に問われたのは国づくりの方法です。
1871年、木戸と大久保は岩倉使節団の一員として欧米へ向かいました。国内では西郷ら留守政府が、学制・徴兵令・地租改正などの改革を進めます。帰国した使節団と留守政府の間では、改革の速度や朝鮮への対応をめぐって意見が衝突しました。
大石学監修『一冊でわかる明治時代』は、欧米との国力差を目の当たりにした岩倉・大久保・木戸らが、朝鮮への使節派遣より内政の充実を優先したと説明しています。対立を薩摩対長州という単純な藩閥争いだけでは説明できない点も重要です。
1873年の明治六年政変で、西郷は政府を去ります。大久保は内務省を創設し、政府の中心で近代化政策を進めました。木戸も政府に関わり続けましたが、留守政府の改革や政府運営に不満を抱き、距離を置く時期がありました。
同じ政府をつくった三人が、同じ方法で国を動かし続けたわけではありません。
そして1877年、その違いは戦争という最も重い形で表れます。
第一幕
木戸孝允――病床で西南戦争の行方を案じる
1877年1月、木戸孝允は病に倒れました。翌2月、西郷隆盛が鹿児島で挙兵し、西南戦争が始まります。
木戸にとって西郷は、ただの反乱指導者ではありません。薩長同盟と明治維新をともに進め、新政府をつくった相手でした。その西郷が、いまは政府軍と戦っています。
木戸は病床にありながら戦争を気にかけ、うわごとのように「西郷、もう大抵にせんか」と口にしたと伝えられています。
西郷、もう大抵にせんか。
山村竜也『世界一よくわかる幕末維新』262頁の記述による
西南戦争が続く1877年5月26日、木戸は京都で亡くなりました。死因は胃癌。満43歳、数え年では45歳でした。
木戸は西郷の敗北を見届けたのではありません。戦争の終結を知ることなく、三人のなかで最初に世を去ったのです。
木戸孝允の生涯を詳しく読む →戦いは九州を南へ進み、
西郷は鹿児島の城山へ戻ります。
第二幕
西郷隆盛――政府をつくった男が、政府軍と戦う
政府を離れた西郷は鹿児島へ戻り、私学校を設立しました。1877年、私学校生徒の動きから戦争が始まると、西郷は彼らを率いる決断をします。
薩摩軍は熊本城を攻めましたが、政府軍を破ることはできませんでした。田原坂などの激戦を経て後退を続け、西郷たちは最後に鹿児島の城山へ籠もります。
相手は、かつて自分たちがつくった明治政府でした。政府軍には、徴兵された兵士たちがいました。西南戦争は、旧武士層の反乱であると同時に、明治国家がどのような軍事力を持つ国になるのかを示す戦いでもあったのです。
9月24日午前7時ごろ、西郷たちは城山を下りました。銃弾を受けて倒れた西郷は、かたわらの別府晋介に「晋どん、もうここでよか」と告げ、介錯を受けたと伝えられています。満49歳、数え年では51歳でした。
薩摩軍の戦死者は約5,000人。政府軍の戦死者も約7,000人近くにのぼったとされます。西郷一人の死で終わった戦争ではありません。多くの人命を失い、日本最後の内戦と位置づけられる戦いが終わりました。
大石学監修本は、旧武士を中心とする西郷軍に対し、徴兵された民衆を主体とする政府軍が勝利したことを重視し、西南戦争を「武士の時代」の終わりを示す戦いとして位置づけています。これは戦争の経過そのものではなく、本書による歴史的な位置づけです。
西郷隆盛の生涯を詳しく読む →三人のうち政府に残ったのは、
大久保ただ一人となりました。
第三幕
大久保利通――最後の一人となった政府指導者
明治六年政変後、大久保は内務省を創設し、内務卿として政府の中心に立ちました。内務省は警察、商業、工業、地方行政、通信、交通など幅広い分野を担い、中央集権国家の建設を進める中心機関となりました。
一方で、急速な改革は強い反発も生みました。明治政府の改革によって、士族は藩という勤務先、俸禄、帯刀など、従来の身分と生活を支えた基盤を失っていきます。
西南戦争で政府軍を勝利へ導いた大久保は、木戸と西郷が去ったあとも国づくりを続けました。しかし、その時間も長くは残されていませんでした。
1878年5月14日、東京・赤坂紀尾井坂。大久保は石川県士族・島田一良ら6人に襲われ、暗殺されました。満47歳、数え年では49歳。実行犯は逮捕され、のちに処刑されています。
大久保暗殺を、西南戦争の単純な「反動」と断定することはできません。ただし、山村竜也氏の本は、実行犯が西郷に心酔し、政府の政策へ強い不満を抱いていたと記しています。一方、大石学監修本は、廃刀令や秩禄処分などを進めた大久保の政治が不平士族の反発を招いたという、より広い社会的背景を説明しています。
大久保利通の生涯を詳しく読む →終章
三人の死が意味したもの
木戸は病死、西郷は戦死、大久保は暗殺。三人の死因は異なります。同じ原因によって三人が命を落としたわけではありません。
それでも、三人の死が短期間に重なった背景には、明治維新後の大きな変化がありました。幕府という共通の相手が消えると、新しい国をどのようにつくるかをめぐって指導者たちの道は分かれます。中央集権化と身分制度の解体は、多くの人の生活を変え、政府への反発も生みました。
資料から確認できること
- 木戸は1877年5月26日、京都で胃癌により病没した
- 西郷は同年9月24日、西南戦争の城山で最期を迎えた
- 大久保は1878年5月14日、紀尾井坂で暗殺された
- 木戸の死から大久保の死までは353日だった
ジャパレキの考察
ジャパレキでは、三人の死が1年足らずの間に重なったことを、明治政府が「維新を実行した指導者の時代」から「制度を運営する次世代の時代」へ移る転換点として捉えます。
三人の退場後、伊藤博文ら次の世代が政府の中心へ進みます。明治維新は、幕府を倒した人物たちだけで完成したのではありません。彼らがつくった政府を受け継ぎ、憲法・議会・産業・外交の制度へ育てる時代が始まったのです。
まとめ
三人は同じ未来を目指し、同じ結末にはたどり着かなかった
西郷・木戸・大久保は、倒幕と新政府成立に大きな役割を果たしました。しかし、明治政府が成立したあと、三人は国づくりの方法をめぐって異なる立場へ進みます。
病床で戦争を案じた木戸。自らがつくった政府と戦った西郷。二人が去ったあとも政府を動かし、暗殺された大久保。
三人の最期をたどると、明治維新が英雄たちの成功だけで終わる物語ではなかったことが見えてきます。国の仕組みを変えることは、人々の立場と生活を変え、かつての仲間を別々の道へ進ませるほど重い仕事だったのです。

コメント