MENU
記事を探す

殖産興業とは?工場・鉄道・銀行で日本の産業を育てた政策

明治時代の殖産興業を、製糸工場・鉄道・電信・汽船で表したイメージイラスト
殖産興業のイメージ(AI生成)
当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。
殖産興業とは、政府が産業・交通・通信・金融を整え、外国から技術を学び、日本で商品を大量に生産して輸出できる国をつくろうとした政策です。
富岡製糸場だけを指す言葉ではありません。工場を動かす人、物を運ぶ鉄道、資金を回す銀行までを一つの仕組みにした国づくりでした。
目次

殖産興業をひとことで表すと

殖産興業しょくさんこうぎょうは、「産業を増やし、仕事を盛んにする」という意味です。明治政府は、西洋の機械や知識を取り入れ、工場、鉱山、鉄道、郵便、海運、銀行を整えました。目的は生活を便利にすることだけでなく、輸入に頼りすぎない経済と、軍事・外交を支えられる国力をつくることでした。

政府が先に用意したもの

官営模範工場、鉱山、造船所、学校をつくり、お雇い外国人から機械の扱いと技術を学びました。

民間が広げたもの

銀行や会社が資金を集め、製糸・紡績・海運・鉄道・造船などを全国へ広げました。

ひこまる

官営工場って、政府がずっと工場を経営するためのものだったんですか?

やたまる

いや、まず政府が機械と技術の手本を示し、学んだ人や事業を民間へ広げる狙いがあったんじゃ。

なぜ明治政府は産業を育てる必要があったのか

開国後の日本は、生糸や茶を輸出する一方、機械、武器、綿製品など多くの工業製品を輸入しました。外国製品を買い続けるだけでは資金が国外へ流れ、軍備や行政を支えることも難しくなります。

岩倉使節団いわくらしせつだんに参加した大久保利通おおくぼとしみちらは、欧米の工場・造船所・鉄道を見て国力の差を痛感しました。1873年に内務省が設けられると、大久保は内務卿ないむきょうとして産業育成を内政の中心に置きます。

殖産興業は、何を整えたのか

生産官営模範工場・鉱山・造船所
新しい機械と作業方法を導入し、技術者や工場労働者を育てました。
輸送鉄道・海運・道路
原料を工場へ運び、製品を港へ送り、軍事輸送にも使える交通網を整えました。
通信郵便・電信
法令、商取引、価格、注文などの情報を全国へ早く届けました。
資金通貨・銀行・株式会社
円・銭・厘の通貨制度、国立銀行、株式取引所を整え、事業へ資金を集めました。
人材学校・留学・お雇い外国人
外国人専門家から学び、その技術を日本人が引き継ぐ体制をつくりました。

富岡製糸場は、なぜ「模範」だったのか

幕末以来、日本の代表的な輸出品は生糸でした。しかし品質にばらつきがあり、外国市場で信用を失うおそれもありました。そこで政府は、フランスの技術を導入した官営富岡製糸場とみおかせいしじょうを群馬県に建設し、1872年に操業を始めます。

富岡製糸場の役割は、生糸を生産するだけではありません。器械製糸きかいせいしの技術と工場運営を学んだ工女たちが各地へ戻り、知識を伝える「学校」の役割も担いました。一つの工場から全国の製糸業へ技術を広げることが、官営模範工場のねらいでした。

鉄道・郵便・海運が、一つの市場をつくった

1872年に新橋・横浜間で鉄道が開業すると、生産地と輸出港を結ぶ時間が短くなりました。郵便と電信は、商人が遠くの相場や注文を知る手段になります。前島密まえじまひそかが郵便制度を整え、岩崎弥太郎いわさきやたろうの三菱商会が海運を発達させたことも、商品と情報を全国で動かす基盤になりました。

鉄道・通信は、産業のためだけに造られたのではありません。政府の命令を全国へ伝え、兵士や物資を運ぶ役割もありました。殖産興業は富国強兵の「富国」を担うと同時に、「強兵」を支える政策でもあったのです。

政府主導から民間企業の成長へ

官営事業は技術導入を進めましたが、多額の費用がかかりました。1880年代になると政府は工場や鉱山を民間へ払い下げ、民間企業が産業発展の中心へ移ります。払い下げの条件や人脈が、三井・三菱・住友などの財閥ざいばつ形成を後押しした面もありました。

1882年には渋沢栄一しぶさわえいいちらが大阪紡績会社を設立しました。1894年以降、生糸では器械製糸の生産量が手作業の座繰製糸ざぐりせいしを上回り、綿紡績も輸入綿花を加工して輸出する産業へ成長します。豊田佐吉とよださきち織機しょっき改良と事業は、のちの豊田自動織機製作所を経て、トヨタグループへつながりました。

軽工業から重工業へ――日清戦争後の加速

初期の工業化を支えたのは、生糸・製糸・紡績などの軽工業でした。日清戦争後は、ロシアへの備えと軍備拡張を背景に、製鉄・造船・機械などの重工業が伸びます。三菱長崎造船所、川崎造船所が商船を生産し、1901年には官営八幡製鐵所やはたせいてつしょが操業を開始しました。

軽工業を中心に育った産業基盤は日清戦争を支え、戦後に進んだ製鉄・造船などの重工業化は、日露戦争を支える力になりました。ただし、日露戦争時の海軍主力艦は外国製が中心であり、国産化はなお途上にありました。

産業発展の光と影――誰が成長を支えたのか

工場で働く人は急増しました。とくに製糸・紡績では若い女性が重要な働き手になりましたが、1日12時間を超える労働、寄宿舎生活、低賃金、労働災害など厳しい環境も広がりました。1903年の『職工事情しょっこうじじょう』は、その実態を政府自身が調査した報告書です。

鉱山開発は輸出と税収を増やす一方、足尾鉱毒事件のような公害を引き起こしました。1911年に工場法が制定されましたが、施行は1916年で、対象や規制も限定的でした。殖産興業の成果は、工場や輸出額だけでなく、その成長を支えた労働者と地域が負った犠牲まで含めて見る必要があります。

殖産興業の前後を、さらに読む

参考資料

  • 大石学監修『世界のなかの日本の歴史 一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2024年、55頁・60〜71頁・102〜106頁・189〜192頁・251〜254頁。
  • 富岡製糸場公式サイト「富岡製糸場の歴史」。
  • 国立公文書館「日本のあゆみ」明治5〜10年。
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次