20世紀のはじめ、日本は重大な選択を迫られていました。
相手は、当時ヨーロッパ有数の大国、ロシア帝国。
国力も人口も、
日本とは比べものにならない相手です。
それでも日本は、
戦う道を選びました。
なぜ、日本は日露戦争に踏み切ったのでしょうか。
日露戦争をひとことで表すと
日露戦争とは、1904年から1905年にかけて、日本とロシアが朝鮮半島と満州をめぐって戦い、日本が勝利した戦争です。
戦争前、日本はどんな立場にあったのか
明治維新以降、日本は急速に近代化を進めてきました。
富国強兵のもと、産業と軍備を整え、
列強に追いつこうとしていた時代です。
しかし、日本の周辺では、
ロシアが南へ勢力を広げていました。
満州への進出。
朝鮮半島への影響力の拡大。
これらは日本にとって、
国の安全そのものに関わる問題でした。
日英同盟|日本は孤立を避けようとした
日本がロシアと向き合う前に重要な支えとなったのが、1902年に結ばれた日英同盟です。
1900年の義和団事件では、日本を含む各国が清へ軍を派遣しました。『一冊でわかる明治時代』は、このときの日本軍の働きがイギリスからの評価を高め、ロシアの南下を警戒する両国の利害が一致したと説明しています。
日本国内では、ロシアと協調すべきだという意見と、イギリスと結んでロシアに備えるべきだという意見が対立していました。最終的に桂太郎内閣と外務大臣・小村寿太郎は日英同盟を選びます。
同盟は、日本がロシアと戦えばイギリスが自動的に参戦するという内容ではありません。しかし、別の国がロシア側に加わることを牽制し、日本が国際的に孤立する危険を小さくしました。
なぜロシアと対立したのか
朝鮮半島は、
日本のすぐ目の前にあります。
そこが他国の支配下に入ることは、
日本にとって大きな脅威でした。
一方のロシアは、
不凍港を求めて南下政策を進めていました。
両国の思惑は、
同じ場所でぶつかります。
話し合いも行われましたが、
妥協点は見つかりませんでした。
開戦までの流れ|交渉はなぜ決裂したのか
ロシアは義和団事件後も満州に軍を置き、撤兵の約束を十分に実行しないまま軍備を増強しました。日本は朝鮮半島での立場を守ろうとし、両国の交渉は満州と朝鮮をめぐって続きます。
小村寿太郎とロシア公使ローゼンの交渉は、1903年から翌年にかけて行われました。しかし双方の要求は折り合わず、国内では東京帝国大学の教授らが対露強硬論を唱えるなど、開戦を求める世論も強まりました。
1904年2月4日、御前会議で対露開戦が決定されます。日本は2月6日に国交を断ち、2月8日に旅順港のロシア艦隊を攻撃し、2月10日に宣戦を布告しました。
日本が戦争に踏み切れた三つの支え
- 外交:日英同盟によって国際的な孤立を避ける見通しが立った
- 軍事:徴兵制と軍備拡張によって近代的な陸海軍を整えていた
- 財政:国内の増税・国債に加え、海外で外債を募集する準備を進めた
ただし、これらは「余裕をもって勝てる」条件ではありません。日本政府は、国力の差から長期戦は難しいと考え、短期の戦闘で優位をつくり、講和へ持ち込む道を探りました。
なぜ日本は「戦う」選択をしたのか
日本にとって、
戦争は望ましい選択ではありませんでした。
国力差は明らかで、
長期戦になれば不利になることも分かっていました。
それでも日本は、
「譲れば、次はない」と判断します。
ここで退けば、
朝鮮半島だけでなく、
日本の立場そのものが弱くなる。
日露戦争は、
勝つための戦争というより、
生き残るための賭けだったのです。
次のページでは、遼陽・黄海・旅順・奉天・日本海海戦をたどり、戦場で日本とロシアが何を目指したのかを見ていきます。

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