選挙で多数を得た政党が、なぜ内閣を率いられなくなったのか
1932年2月、立憲政友会は総選挙で301議席を獲得しました。ところが、その約3か月後の五・一五事件で犬養毅首相が殺害されると、後継首相には政友会の総裁ではなく、海軍出身の斎藤実が選ばれます。
政党内閣は、選挙で敗れて終わったのではありません。変わったのは、議会で多数を持つ政党を内閣の中心に据えるという、首相選定の慣行でした。
一方、満洲では関東軍の一部将校が政府の事前命令なしに軍事行動を始め、政府の不拡大方針に反して占領を広げていました。その結果を日本政府が追認し、1932年に満洲国を承認したことで、国際連盟との対立が深まります。1933年3月、日本は連盟からの脱退を通告しました。
この三年間は、「軍が強くなり、政党が弱くなった」とだけ説明すると、誰が何を決めたのかが分からなくなります。選挙、現地軍の行動、国内の政治暴力、外交上の決定を分けて追う必要があります。
この記事では、政友会と民政党の動きを中心に、満洲事変・昭和恐慌への対応・五・一五事件・国際連盟脱退をつなげます。政党の歴史から、同じ時期の日本史も理解できるように読んでいきましょう。
前回の日本政党史⑨|初の男子普通選挙から統帥権干犯問題まででは、政治参加の拡大と、政府が軍の行動を統制する難しさを扱いました。今回は、1931年春の第2次若槻礼次郎内閣から、その問題がどう進んだのかを確かめます。
時代全体を先に確認したい方は、昭和時代のまとめも合わせて読むと、恐慌・戦争・社会の変化の位置づけが分かります。
先に押さえたい六つの言葉
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| 言葉 | この記事での意味 |
|---|---|
| 憲政の常道 | 政党内閣が退陣した際に、対立する主要政党の党首が次の内閣を組織するなど、政党を中心に政権を交代させる慣行。憲法が多数党の党首の首相就任を義務づけていたわけではない |
| 関東軍 | 日本が満洲の権益を守るために置いた陸軍部隊。柳条湖事件を計画した一部将校と、部隊全体・陸軍中央の判断は区別する |
| 朝鮮軍 | 当時日本の植民地だった朝鮮に駐屯していた日本陸軍。1931年9月、正式な事前承認を待たず満洲へ増援した |
| 追認 | すでに行われた行動を、権限を持つ側が後から認めること。最初から命じることとは異なるが、その後の政策に責任を持つ決定である |
| 挙国一致内閣 | 一つの政党だけを基盤とせず、官僚・政党など複数の勢力から閣僚を集めた内閣。政党同士の合併を意味しない |
| リットン調査団 | 満洲事変を調査するために国際連盟が派遣した調査団。日本の権益にも言及したが、軍事行動と満洲国成立について日本の説明を認めなかった |
1|選挙・満洲・国内の政治暴力・外交を分けて追う
1931年から1933年には、違う場所で進んだ出来事が、政府の判断を通じて関係していきました。最初から一つの計画で進んだわけではありません。
選挙では、政友会と民政党の間で議席が大きく動いています。満洲では現地軍が占領を広げ、国内では軍人や民間の急進的な運動家が政権の転覆や要人の暗殺を企てました。国際連盟は、現地調査と外交交渉による解決を試みます。
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| 時期 | 選挙・内閣 | 満洲・上海での動き | 国内の政治暴力・国際外交 |
|---|---|---|---|
| 1931年3月 | 浜口内閣の時期 | ― | 三月事件のクーデター計画が未遂に終わる |
| 4月 | 第2次若槻内閣が成立 | ― | ― |
| 9月18日 | ― | 柳条湖事件。関東軍が軍事行動を開始 | ― |
| 9月19日 | 政府が不拡大方針を決定 | 現地では占領が拡大 | 中国が9月中に国際連盟へ問題を提起 |
| 9月21日 | 政府が後に増援を追認 | 朝鮮軍が独断で満洲へ越境 | ― |
| 10月 | ― | 8日に錦州を爆撃 | 十月事件のクーデター計画が未遂に終わる |
| 11月 | ― | チチハルを占領 | ― |
| 12月10〜13日 | 11日に若槻内閣総辞職。13日に犬養内閣成立・金輸出再禁止 | ― | 10日に連盟が調査団派遣を決定 |
| 1932年1月 | 21日に衆議院解散 | 錦州を占領。28日に第一次上海事変が始まる | ― |
| 2月 | 20日の総選挙で政友会301議席 | ― | 9日に井上準之助が暗殺される |
| 3月 | ― | 1日に満洲国の建国宣言 | 5日に団琢磨が暗殺される |
| 5月 | 26日に斎藤内閣成立 | 5日に上海で停戦協定 | 15日の五・一五事件で犬養首相が殺害される |
| 9〜10月 | ― | 9月15日、日本が満洲国を承認 | 10月2日、リットン報告書公表 |
| 1933年2月24日 | ― | ― | 連盟総会が報告案を採択。日本代表団が退場 |
| 3月27日 | 斎藤内閣が脱退通告 | ― | 日本が国際連盟脱退を正式に通告 |
特に注意したいのは、1932年2月20日の総選挙と、5月15日の首相殺害の順序です。政友会が大きな多数を獲得した後に、選挙を経ない暴力と、その後の首相選定によって政党内閣が途切れました。
ただし、選挙と暴力が社会的に無関係だったとも、有権者全員が同じ考えだったとも言えません。確かめられるのは、総選挙の結果を、そのまま「有権者が政党内閣の廃止を選んだ結果」とは読めないということです。
2|二大政党の議席は、一直線に減っていたわけではない
この時期の政党政治を理解するには、三回の総選挙を並べると分かりやすくなります。
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| 総選挙 | 立憲政友会 | 立憲民政党 | 結果の特徴 |
|---|---|---|---|
| 1928年2月 | 217議席 | 216議席 | 初の男子普通選挙。二大政党がほぼ互角 |
| 1930年2月 | 174議席 | 273議席 | 浜口内閣を支える民政党が過半数を獲得 |
| 1932年2月 | 301議席 | 146議席 | 犬養内閣を支える政友会が過半数を獲得 |
表に載せたのは二大政党の議席であり、無産政党やその他の勢力の議席は別にあります。それでも、1930年と1932年に政党内閣の与党が明確な多数を得たことは確認できます。
政府と軍の関係も、同じ方向に進み続けたわけではありません。1928年の張作霖爆殺事件では、田中義一内閣は関係将校を十分に処罰できませんでした。しかし1930年には、浜口内閣が海軍軍令部などの反対を受けながら、ロンドン海軍軍縮条約の批准を実現しています。
政党内閣には、軍事に関わる重要な国家方針を決める力もありました。その一方で、現地の部隊の独断を止めたり、責任を追及したりする場面では、力を発揮できないことがあったのです。
多数党が、そのまま首相を決める制度ではなかった
明治憲法には、「衆議院で最も多くの議席を持つ党の党首を首相にする」という条文はありません。首相は天皇によって任命され、実際の候補者選びでは元老の推薦が重要な役割を持ちました。
1924年以降、主要政党の党首が交互に内閣を組織する慣行が定着していきます。これが「憲政の常道」です。議会の支持は大切でしたが、多数を持てば首相の地位が法律上保障される仕組みではありませんでした。
したがって、1932年に起きた変化は、政党内閣を定める憲法の条文が廃止されたことではありません。危機への対応として、首相を選ぶ側が、それまでの慣行とは違う人選をしたことでした。
政党の議席数と、内閣を組織・維持する力。この二つを区別して読むことが、本稿全体の出発点になります。
この時期の二大政党は、1900年に結成された立憲政友会と、1927年に憲政会・政友本党の合同で成立した立憲民政党です。今回扱う変化は、この二党の合併や解党ではなく、内閣を率いる役割の変化と、民政党の一部からの分岐でした。
3|三月事件と十月事件では、軍人が内閣の転覆を計画した
満洲事変が始まる前の1931年3月、国内でクーデター計画が進められました。中心にいたのは、橋本欣五郎ら陸軍将校による桜会と、民間の国家改造運動家・大川周明らです。
桜会は、1930年に結成された軍内部の政治的結社でした。陸軍が正式に設けた組織ではなく、一部の将校が政治の改造を目指して集まったものです。
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| 計画 | 時期 | 中心となった勢力 | 首相に据えようとした人物 | 結果 |
|---|---|---|---|---|
| 三月事件 | 1931年3月 | 桜会の将校・大川周明ら | 陸相の宇垣一成 | 宇垣が最終的に応じず、未遂 |
| 十月事件 | 1931年10月 | 桜会の将校・大川周明ら | 陸軍の荒木貞夫 | 事前に発覚し、未遂 |
彼らが批判したのは、政党の政争や財閥の影響力、国際協調外交でした。昭和恐慌による失業や農村の困窮も、既存の政治への不信を強める背景になります。
ただし、不況だけでクーデターの計画が説明できるわけではありません。具体的に計画を立てたのは、軍事力を使って政党内閣を倒し、別の政権をつくってよいと判断した人々でした。
未遂でも、軍人の政治介入という問題は残った
軍人が退役して政党に入り、選挙や議会を通じて政治に関わることと、軍の内部にとどまったまま武力で内閣を取り替えようとすることは違います。
三月事件と十月事件では、軍内部にも反対や慎重論があり、計画は実現しませんでした。それでも、現役軍人が政権の転覆を具体的に企てた点は重要です。
関係者への処分が軽かったことも問題でした。厳格な責任追及が行われなければ、政治への武力介入を思いとどまらせる効果は弱くなります。同じ年に再びクーデターが計画された事実は、三月事件の処理が十分な歯止めにならなかったことを考える手がかりになります。
これは、三月事件から五・一五事件までが一つの計画だったという意味ではありません。事件ごとの組織と行為を区別したうえで、軍人による政治介入を抑える仕組みが十分に働かなかった点を見ておきましょう。

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