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日本政党史⑩|満洲事変から国際連盟脱退まで

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4|柳条湖事件は、関東軍の一部将校が計画した謀略だった

1931年9月18日夜、奉天郊外の柳条湖付近で、南満洲鉄道の線路が爆破されました。関東軍は中国軍の行為だとして、近くの北大営を攻撃し、奉天の占領へ進みます。

しかし、この爆破は、関東軍参謀の石原莞爾、高級参謀の板垣征四郎らが計画した謀略でした。日本政府が中国側の攻撃を受けて開戦を命じた、という経過ではありません。

線路の損傷は小さく、列車が通行できる程度でした。それに対して、その後の軍事行動は、満鉄沿線から中国東北部の広い範囲へ及びます。小規模な線路爆破が、大規模な占領を始める口実に使われたのです。

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時期関東軍の行動占領拡大の意味
1931年9月18日以降北大営を攻撃し、奉天を占領柳条湖事件を理由に軍事行動を開始
9月中長春周辺・吉林などへ進出満鉄沿線の警備という範囲を越える
10月8日錦州を爆撃張学良側の拠点への攻撃を拡大
11月チチハルを占領北部満洲へ進み、ソ連との関係も問題になる
1932年1月錦州を占領犬養内閣成立後も占領が続く

「事変」という名称は、戦闘の小ささを意味しない

日本と中国は正式な宣戦布告をせず、日本側は「満洲事変」と呼びました。しかし、名称が「事変」だから、限定的な小競り合いだったわけではありません。軍事占領の規模と、政府が用いた呼び方は分けて考える必要があります。

当時の満洲に日本が持っていた権益については、南満洲鉄道の記事で確認できます。満洲事変そのものの展開は、満洲事変の解説につながります。

1928年の張作霖爆殺事件とは、結果が違った

1928年にも、関東軍の一部将校が中央政府の正式命令なしに張作霖を爆殺しました。ところが、その結果は将校らの期待どおりには進まず、後継者の張学良は国民政府への合流を示す易幟を行います。

1931年には、関東軍が占領を広げ、政府が撤回させにくい状況をつくりました。独断の行動という共通点があっても、結果は同じではなかったのです。

1928年の事件で十分な処罰が行われなかったことは、その後の独断行動を抑えるうえで問題を残しました。ただし、処罰が軽かったことだけを、1931年の事件の唯一の原因にはできません。新たな作戦を計画し、実行した将校たちの判断がありました。

石原らには、満洲の資源を確保し、将来の総力戦に備える構想がありました。総力戦とは、軍だけでなく経済・産業・国民生活まで動員する戦争です。この構想が、事件の時点ですでに日本全体の正式な政策だったわけではありません。部隊の行動、陸軍中央の対応、政府の承認などを経て、国家方針へ組み込まれていきます。

5|若槻内閣は不拡大を決めたが、現地で実行させられなかった

第2次若槻礼次郎内閣は、柳条湖事件の翌日の9月19日、事態を広げないという不拡大方針を決めました。9月24日には、中国の領土を奪う意図はないという趣旨の政府声明も出しています。

政府の方針と、現地軍が実際に行ったことは一致していません。政府が不拡大を決めたから軍事行動が止まったのでも、政府が当初からすべての占領を命令したのでもありません。

過程を分けると、次のようになります。

現地軍の一部将校が、政府の事前命令なしに行動する
↓
政府が不拡大方針を示すが、現地の行動を止められない
↓
陸軍中央や政府が、進んだ軍事行動を事後に認める
↓
政府が、軍事行動の結果を外交上の国家方針に組み込む

この図は、追認が重なる過程を整理したものです。すべての行動が同じ手続きで承認されたという意味ではありません。朝鮮軍増援の追認と、後の満洲国承認は、時期も対象も異なる決定です。

命令した責任と、追認した責任を区別する

最初から占領を命じることと、命じていない占領を止められずに後から認めることは、同じではありません。この違いを消すと、政府による軍の統制がどこで働かなかったのかを説明できなくなります。

しかし、最初に命令していないから、その後も政府に責任がないとは言えません。増援を認め、占領の結果を政策として採用した段階では、政府自身も決定をしています。

政府の初期方針と最終的な決定を区別することは、政府の責任を免除するためではなく、責任の対象と時点を明確にするためです。

6|関東軍・朝鮮軍・陸軍中央・政府は、同じ判断をしていなかった

この時期の説明に出てくる「軍部」という言葉には、違う組織や人物が含まれています。一語でまとめるだけでは、計画した人、部隊を動かした人、止めようとした人、後から認めた人が混同されます。

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主体この時期の行動読むときの注意
関東軍の一部将校柳条湖事件を計画し、軍事行動の拡大を進めた個別の将校の計画を、当初から陸軍全体の統一方針だったとしない
朝鮮軍林銑十郎司令官が、正式承認を待たず満洲へ増援を出した関東軍とは別の部隊による判断だった
陸軍中央現地の行動を支持する動きと、拡大に慎重な動きがあり、結果として追認が進んだ中央内部の意見の違いと、最終的な対応を分ける
若槻内閣不拡大を決定したが実行させられず、増援を事後に認めた初期方針だけでなく、追認した決定も見る

陸軍中央にも、国際関係の悪化や軍紀の乱れを心配する人々がいました。関東軍の行動を支持する側でも、どこまで占領するか、どのような政権をつくるかについて、初めから意見がそろっていたわけではありません。

関東軍が陸軍の一部隊であるという組織上の事実と、全員が同じ計画で動いたという説明は別です。一方、当初は異なる意見を持っていても、最終的に占領の拡大を認めたなら、その判断の責任は残ります。

史実を読む際には、「誰が計画したか」「誰が命令したか」「誰が止めようとしたか」「誰が追認したか」の四つを確認すると、行動と責任を具体的に理解できます。

7|朝鮮軍の独断越境を、政府は後から認めた

1931年9月21日、朝鮮に駐屯していた日本陸軍が、正式な事前承認を得ないまま満洲へ越境しました。目的は、占領を広げる関東軍を増援することでした。

命じたのは、朝鮮軍司令官の林銑十郎です。この行動によって、林は後に「越境将軍」と呼ばれます。

政府は不拡大方針との関係から、事前には増援を認めていませんでした。ところが、部隊が先に動いた後、増援を追認し、その経費の支出も認めることになります。天皇の裁可を経る正式な手続きも、行動の後から行われました。

処罰しないことと、正式に認めることは違う

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事件中央の対応残された問題
1928年の張作霖爆殺関係将校を十分に処罰できなかった独断の行動について責任を追及できなかった
1931年の朝鮮軍越境事前承認のない増援を、政府が後から認めた独断で進めた軍事行動を、正式な支援の対象にした

後からの承認は、「現地で部隊を動かせば、中央の判断を変更させられる」という前例になりました。政府が方針を決めても、部隊が先に行動することで、その方針を実行しにくくしたのです。

ただし、これによって独断越境が合法化され、以後のすべての行動が許可されたわけではありません。問題は、命令と責任の原則を守るはずの中央が、今回の違反を厳しく処理せず、結果を受け入れたことです。

部隊を統制するには、命令を出すだけでは足りません。命令に反した行動をどう扱うかも、次の行動に影響します。朝鮮軍越境は、その点を示す出来事でした。

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