8|若槻内閣の総辞職に至る直接の過程は、閣内対立だった
第2次若槻内閣は、1931年12月11日に総辞職しました。満洲事変は大きな背景ですが、内閣が退陣する直接の政治過程は、閣僚間の対立でした。
内相の安達謙蔵は、民政党と政友会などが協力して内閣を組織する「協力内閣」を求めます。満洲事変と経済危機を、一つの政党の内閣ではなく、複数の勢力で処理しようという構想でした。
これに対し、外相の幣原喜重郎や蔵相の井上準之助は、従来の外交・経済政策を大きく変えることに反対しました。若槻も民政党内閣の継続を図ります。対立は解消されず、安達が閣議への出席を拒んだことで、内閣は一致して政策を進められなくなりました。
「関東軍が若槻内閣を倒した」とだけ書くと、この政治過程が抜け落ちます。軍の統制ができない状況と経済危機が、内閣の対応を難しくしたこと。そのなかで、協力内閣をめぐる対立が総辞職に至ったこと。背景と直接の経過を両方押さえる必要があります。
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| 若槻内閣 | 当時の背景 | 退陣に至る直接の政治過程 |
|---|---|---|
| 第1次内閣・1927年 | 金融恐慌、台湾銀行の救済問題 | 枢密院が救済のための緊急勅令案を認めなかった |
| 第2次内閣・1931年 | 満洲事変、昭和恐慌、現地軍の統制問題 | 協力内閣をめぐる閣内対立が解消できなかった |
どちらも、総選挙の敗北や衆議院の不信任によって退陣したわけではありません。同じ首相でも、内閣が終わる経過は違いました。
後継には、野党第一党である政友会の総裁・犬養毅が選ばれます。この時点では、主要政党間で政権を交代させる憲政の常道が続いていました。
幣原外交は、方針だけでなく実行主体も問われた
幣原は、1924年以降の憲政会・民政党系内閣で、国際協調を重視する外交を担ってきました。これは、日本の権益をすべて放棄する方針ではありません。既存の国際関係や交渉のなかで、日本の利益を守ろうとする外交でした。
しかし満洲事変では、現地軍が先に占領範囲や新政権の成立条件を変えてしまいます。政府が外国と交渉しても、その前提となる現地の状況を政府自身が統制できませんでした。
若槻内閣の崩壊は、幣原が外相として進めてきた協調外交の挫折でもあります。その経過は、政権交代による外交方針の変更だけでは説明できません。政府と現地軍のどちらが、外交の内容を実際に決めるのかという問題が重なっていました。
民政党からの離党は、国民同盟の結成へつながった
安達は1931年12月に民政党を離れ、1932年には国民同盟が結成され、総裁になります。二大政党がともに消えたのではなく、民政党が存続する一方で、協力内閣をめぐる対立から別の政党へ進む動きもありました。
この図は、民政党側から見た分岐です。国民同盟の参加者全員が民政党出身だったという意味ではありません。また、1931年の協力内閣構想、1932年の国民同盟、斎藤の挙国一致内閣は、名前が似ていても同じ組織ではありません。
9|犬養内閣は、成立した日に経済政策を転換した
1931年12月13日、犬養毅内閣が成立しました。蔵相に就いた高橋是清は、その日のうちに金輸出を再び禁止します。
浜口・若槻内閣の蔵相だった井上準之助は、1930年1月に金輸出を解禁し、日本を金本位制へ戻していました。高橋は、その方針を転換したのです。
金本位制は、通貨の価値を金との関係で定める仕組みです。井上は、戦前と同じ交換比率である旧平価での復帰を選び、緊縮財政や産業の合理化によって、通貨の信用と国際競争力を回復しようとしました。
しかし、世界恐慌と重なったことで、企業や農村には深刻な負担がかかります。高橋は、金との固定的な関係を維持するより、金融と財政の両方から需要を支え、不況からの回復を優先しました。
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| 比較点 | 井上準之助の政策 | 高橋是清の政策 |
|---|---|---|
| 金と通貨 | 旧平価で金輸出を解禁し、金本位制へ復帰 | 金輸出を再禁止し、金本位制から離脱 |
| 財政 | 支出を抑える緊縮財政 | 政府支出を増やす積極財政 |
| 物価と産業 | 物価・生産費の引下げと合理化を通じた調整を重視 | デフレを和らげ、需要と生産を回復させることを重視 |
| 為替 | 旧平価で円の価値を維持する | 金の制約を離れ、円安を容認する |
| 優先した課題 | 通貨の信認と経済の立て直し | 雇用・国内需要・景気回復 |
| 共通する経歴 | 日本銀行総裁を経て蔵相となった | 日本銀行総裁を経て蔵相となった |
二人とも金融の実務経験を持っていました。それでも政策が違ったのは、危機の見方と、まず何を守るかという判断が異なったためです。経歴が似ていても、同じ政策を選ぶとは限りません。
高橋財政は、次の内閣にも引き継がれた
金輸出の再禁止後、円安は輸出に有利な条件をつくり、金融緩和や財政支出は需要を支えました。1932年1月には金貨との交換が停止され、日本は事実上の管理通貨制度へ移ります。管理通貨制度とは、金との交換を前提にせず、金融当局が通貨を管理する仕組みです。
同年11月には、日本銀行による国債の引受けが始まります。国債を発行して政府支出の資金を調達する政策は、犬養内閣が終わった後の斎藤内閣でも展開されました。
日本経済は、主要国と比べて比較的早く恐慌から回復します。ただし、金輸出を再禁止した日に不況が終わったのでも、企業と農村のすべてが同時に回復したのでもありません。複数の政策と経済の変化を、時間をかけて見る必要があります。
犬養内閣を「満洲事変の時期の内閣」とだけ捉えると、経済政策の転換が見えにくくなります。内閣は、国外の軍事・外交問題と同時に、失業、農村の困窮、物価と為替への対応も求められていました。
井上は1932年の血盟団事件、高橋は1936年の二・二六事件で殺害されます。政策が大きく違った二人が、ともに政治的暴力の標的となりました。この点も、暴力を単なる政策への賛否だけで説明できない理由になります。
10|1932年の総選挙で、政友会は301議席を得た
犬養内閣は1932年1月21日に衆議院を解散し、2月20日に第18回総選挙が行われました。結果は、政友会301議席、民政党146議席です。政友会は、衆議院の定数466の過半数を大きく上回りました。
1930年には民政党が273議席を得ていました。それから2年で、二大政党の議席の大小が逆転しています。民政党への支持が減ったことと、政党そのものが選挙の支持を失ったことは、同じではありません。
政友会の勝利には、複数の条件があった
昭和恐慌への不満、金解禁や緊縮財政への批判、新しい経済政策への期待は、選挙を考えるうえで重要です。満洲事変をめぐる世論や、政友会の地方組織と選挙運動も関わりました。
この勝利を、満洲での軍事行動への支持だけで説明することはできません。まして、301議席を「政党を廃止して軍に政治を任せることへの信任」と読み替えることもできません。
1925年に成立した男子普通選挙の制度によって、納税額による選挙権の制限は撤廃されていました。ただし、女性には選挙権がなく、年齢などの条件もありました。選挙の結果は、国民全員の考えをそのまま示すものではありません。
また、この選挙は小選挙区制ではなく、一つの選挙区から3〜5人を選ぶ中選挙区制で行われています。有権者は一人の候補者に投票し、得票の多い候補者から選ばれました。地方組織や候補者の競争を含め、議席数だけでは把握できない条件がありました。
それでも、事件直前の総選挙で、政党内閣の与党が多数を得たという事実は変わりません。五・一五事件後に政党内閣が途切れた理由は、「選挙で支持されなかったから」以外の政治過程に求めなければなりません。
11|第一次上海事変と満洲国成立は、場所も性格も異なる
1932年には、満洲の外でも大きな戦闘が起きました。上海での軍事衝突です。1937年の戦闘と混同しやすいため、先に三つを区別しておきます。
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| 出来事 | 時期・場所 | この時期の展開 |
|---|---|---|
| 満洲事変 | 1931年9月から・中国東北部 | 軍事占領が広がり、満洲国の成立へ進む |
| 第一次上海事変 | 1932年1月28日から・上海 | 戦闘後、5月5日の停戦協定で収束する |
| 第二次上海事変 | 1937年・上海 | 日中全面戦争期の戦闘。1932年とは別の事件 |
第一次上海事変の背景には、満洲事変による日中関係の悪化と、日本製品の不買運動などがありました。発端となった日本人僧侶襲撃事件については、後年の田中隆吉の証言などをもとに、関東軍関係者による工作と、国際社会の関心を満洲から上海へそらす意図が指摘されています。
ここでは、後年の証言を含む史料から分かる工作と、その後の戦闘の経過を区別する必要があります。発端に工作があったことは、大規模な戦闘がすべて当初の計画どおりに進んだことを意味しません。
上海では中国の第十九路軍と日本軍が戦い、日本側では海軍に加えて陸軍も投入されました。5月5日には、イギリスなどの仲介によって停戦協定が結ばれます。満洲で占領と新国家の建設が進んだ経過とは、同じではありませんでした。
満洲国成立は、占領の結果を政治制度に変える動きだった
1932年3月1日、満洲国の建国が宣言されました。元首に据えられたのは、清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀です。
ただし、満洲国での地位は、1932年には「執政」でした。満洲国の皇帝になるのは1934年です。清朝での経歴と、満洲国成立時の肩書は分けておきましょう。
満洲国は独立国家を名乗りましたが、その成立と運営には関東軍や日本人官僚が強く関わっていました。住民による独立運動を日本が後から支援した、という説明では、実際の成立過程を捉えられません。
一時的な占領なら、部隊の撤収を中心に交渉する余地があります。しかし新国家の組織と制度がつくられると、国境、政府の権限、外交上の承認まで問題になります。軍事行動の結果を、継続的な政治秩序に変えようとした点が、満洲国成立の意味でした。
この成立過程が国際的に認められなかった理由は、満洲国が承認されなかった理由の記事にもつながります。
12|犬養内閣は、満洲国を正式には承認しなかった
満洲国が成立したのは犬養内閣の時期ですが、日本が正式に承認したのは、後の斎藤内閣の時期です。犬養内閣のうちに承認が決まったわけではありません。
この違いは、犬養内閣の判断を考えるうえで重要です。関東軍の占領を止められなかったことと、その結果を外交上の国家承認として認めることは、別の決定だからです。
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| 問題 | 犬養内閣の対応 | 分かること |
|---|---|---|
| 錦州などへの軍事行動 | 占領の拡大を止められなかった | 現地軍の統制には限界があった |
| 経済政策 | 金輸出を再禁止し、政策を転換した | 内閣は独自の政策判断も行っていた |
| 満洲国の国家承認 | 内閣の存続中には正式承認しなかった | 軍事行動の結果を直ちに外交上の承認へ変えたわけではない |
この三つは、同じ内閣のなかで起きています。犬養を、軍に全面的に従った首相とする説明も、軍の行動に一貫して対抗した首相とする説明も、実際の対応を単純化してしまいます。
犬養には中国との交渉による解決を探る動きもありました。一方で、軍事行動を止められず、事変の処理を担った政治上の責任もあります。
政党内閣と軍の関係は、案件ごとに抵抗、妥協、追認の組合せが違いました。人物の評価を先に決めず、どの問題で何を決定したのかを確かめることが大切です。

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