政府は政党を排除しきれず、提携を選んだ
1890年に帝国議会が開かれると、政府と民党は軍備、行政費、地租をめぐって対立しました。
政府は1891年に衆議院を解散し、翌年の総選挙では地方官と警察官を使って選挙へ介入します。それでも、民党を衆議院から排除することはできませんでした。
その後、政府と政党の関係を変えたのが、条約改正、日清戦争、戦後経営です。
軍備拡張、産業振興、鉄道整備、台湾統治を進めるには、大きな予算と新しい税が必要でした。法律と予算を成立させるには、帝国議会の協賛を得なければなりません。政府は政党との交渉を避けられなくなりました。
政党の側も、政府へ反対するだけでは政策を実行できません。自由党と進歩党は1898年に合同して憲政党を組織し、日本最初の政党内閣を成立させました。しかし、政策、人事、地方組織を十分に統合できず、内閣も党も短期間で分裂します。
この経験を経た1900年、憲法制定と内閣制度を主導した伊藤博文が、自ら立憲政友会を組織しました。
この記事では、日本政党史の第4回として、1891年の衆議院解散から1900年の立憲政友会結成までをたどります。
まず流れを確認|1891年から1900年まで
| 年 | 日本史上の主な出来事 | 政党史での意味 |
|---|---|---|
| 1891年 | 第1次松方内閣が衆議院を解散 | 政府が解散によって民党の勢力を抑えようとした |
| 1892年 | 第2回総選挙と選挙干渉、国民協会結成 | 強硬策が失敗し、政府側にも議会内の支持勢力が必要だと認識された |
| 1893年 | 和協の詔勅 | 建艦費をめぐる対立が収まり、政府と政党の提携が本格化した |
| 1894年 | 日英通商航海条約調印、日清戦争開戦 | 条約改正と対外政策が政党の組み合わせを変え、戦時協力が進んだ |
| 1895年 | 下関条約、三国干渉、自由党が政府との連携を表明 | 戦後経営を進める政府と政権参加を求める自由党の利害が重なった |
| 1896年 | 進歩党結成、板垣退助が第2次伊藤内閣へ入閣、第2次松方内閣成立 | 旧自由党系と旧改進党系が、それぞれ政府との提携を進めた |
| 1897年 | 貨幣法成立、金本位制確立 | 戦後経営が軍備だけでなく通貨・産業・財政へ広がった |
| 1898年 | 地租増徴案、憲政党結成、隈板内閣成立、憲政党分裂 | 二つの主要政党が合同して政権を担ったが、約4か月で分裂した |
| 1899年 | 文官任用令改正 | 政党が高級官僚人事へ介入できる範囲が狭められた |
| 1900年 | 治安警察法、軍部大臣現役武官制、立憲政友会結成 | 政党政治が進む一方、官僚・軍・警察制度による制約も整えられた |
この10年間を、政党勢力が着実に強くなった過程とだけ捉えることはできません。
選挙を経た衆議院の政党、選挙によらない貴族院、官僚、軍、元老が、それぞれ異なる基盤を持っていました。政党内閣の成立と、政党を制約する制度の整備が、同じ時期に進んでいます。
1|衆議院解散と選挙干渉は、なぜ民党を抑えられなかったのか
第2議会では、政府と民党が予算をめぐって対立しました。
政府は、軍備、行政、国家事業のための支出を確保しようとします。民党は、政府支出を削減し、国民の税負担を軽くする政費節減・民力休養を求めました。
1891年12月25日、第1次松方正義内閣は衆議院を解散します。大日本帝国憲法の施行後、初めての衆議院解散でした。
第2回総選挙で政府が行った選挙干渉
1892年2月15日の第2回衆議院議員総選挙では、品川弥二郎内務大臣のもと、地方官や警察官が選挙へ介入しました。
政府側の資料では、政府寄りの候補者を「着実派」、民党側を「過激派」に分け、各地の情勢を調査しています。実際の選挙では、候補者や運動員への妨害、威圧、衝突が各地で起こり、民党側を中心に多数の死傷者が出ました。集会や居住を制限する予戒令も用いられます。
しかし、選挙干渉を行っても、政府は民党を衆議院から排除できませんでした。選挙後の議会では、干渉の責任が追及され、品川は内務大臣を辞任します。
解散と選挙干渉で政党を抑える方法には限界がありました。政府が法律と予算を安定して成立させるには、議会内で政府を支える勢力を確保する必要があります。
国民協会は、政府側の議会基盤を目指した
1892年、西郷従道や品川弥二郎らは国民協会を組織しました。政府寄りで国権を重視する立場を取り、民党に対抗する議会勢力を目指します。
これは、政府が政党を外から抑えるだけでなく、議会内に支持勢力を持つ必要を認めた動きでもありました。
西郷従道は、西南戦争で亡くなった西郷隆盛の弟です。兄が政府を去った後も中央政府に残り、海軍大臣などを務めました。同じ家族でも、明治政府との関わり方は異なっていました。
2|和協の詔勅は、政府と民党の対立をどう収めたのか
1892年、第2次伊藤博文内閣が成立しました。伊藤博文、井上馨、山県有朋、黒田清隆、大山巌ら明治政府の有力者が集まったため、元勲内閣とも呼ばれます。
ここで使う「元勲」は、明治維新や政府建設に大きな功績があった政治家を広く指す言葉です。後に首相候補の推薦などで強い影響力を持った特定の有力者を指す「元老」とは、意味が完全に同じではありません。両方に含まれる人物はいますが、用語は区別する必要があります。
第4議会では、海軍拡張のための軍艦建造費をめぐって、政府と民党が再び衝突しました。政府は建艦費を求め、民党は予算を削ろうとします。
1893年2月、明治天皇は和協の詔勅を出しました。宮中の内廷費を節約し、官吏の俸給も削減して建艦費に充てる方針が示され、対立は収まります。
天皇の詔勅によって政府と議会の対立を収めた事例であり、現在の議会政治と同じ解決方法ではありません。ただし、政府が議会の反対を無視できず、民党にも国家運営のための判断が求められたことは確認できます。
3|条約改正問題が、政党の組み合わせを変えた
政府対民党という分け方は、外交問題をめぐって崩れます。
不平等条約の改正交渉に対し、立憲改進党や国民協会などの6党派は対外硬六派を組織しました。政府が外国へ譲歩しすぎることを警戒し、外国人に条約で認められた以上の権利を与えないという現行条約励行論を唱えます。
一方、自由党は、第2次伊藤内閣の条約改正に比較的協力的な立場を取りました。
| それまでの主な対立 | 条約改正をめぐる組み合わせ |
|---|---|
| 民党 対 政府 | 立憲改進党・国民協会など 対 自由党・伊藤内閣 |
政党の立場は、「政府に賛成か反対か」だけでは決まらなくなりました。外交、条約、国権、議会運営について、どの政策を優先するかが政党間の違いになります。
1894年7月16日、陸奥宗光外務大臣のもと、駐英公使の青木周蔵がイギリスと日英通商航海条約を調印しました。条約の実施によって領事裁判権は撤廃されます。ただし、関税自主権の完全回復は1911年まで待たなければなりません。
陸奥は自由民権運動と接点を持ち、政府を離れた時期を経て外交の中心へ戻った人物です。政府側と民権側の人脈は、常に固定されていたわけではありません。

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