4|日清戦争は、政府と政党の関係をどう変えたのか
1894年、朝鮮で東学農民運動(甲午農民戦争)が拡大すると、朝鮮政府の要請を受けた清が出兵し、日本も軍を派遣しました。朝鮮をめぐる日清両国の対立は、日清戦争へ進みます。
戦時下では、政府と政党の対立が弱まりました。各党は、議会の混乱によって戦争遂行を妨げる事態を避けようとします。自由党は、戦後の政権参加も見据え、伊藤内閣との距離を縮めました。
1895年4月17日、日本と清は下関条約を結びます。日本側は伊藤博文と陸奥宗光、清側は李鴻章と李経方が交渉を担いました。
清は朝鮮の独立を認め、日本へ遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲し、賠償金を支払うことなどを認めます。しかし、ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉を受け、日本は遼東半島を清へ返還しました。
三国干渉はロシアへの警戒を強め、軍備拡張と国力増強を求める議論につながります。「臥薪嘗胆」は当時の社会で広まった言葉ですが、政府の正式な政策名ではありません。
台湾には台湾総督府が置かれ、総督に強い軍事・行政権限が与えられました。政党が議会で扱う問題は、国内の税や予算だけでなく、海外領土、植民地統治、軍備、外交へ広がります。
日清戦争を戦争の経過だけで見ると、政党史とのつながりを見失います。政府と政党が戦時協力を経験し、戦後に必要となる巨額の予算をめぐって提携を深めたことが、後の政党内閣と立憲政友会へつながりました。
5|戦後経営のため、政府は政党を必要とした
日清戦争後、政府は戦後経営を進めました。
| 戦後経営の分野 | 主な内容 |
|---|---|
| 軍事 | 陸軍・海軍の拡張 |
| 産業 | 製鉄、造船、重工業の育成 |
| 交通 | 鉄道や港湾の整備 |
| 統治 | 台湾統治の制度と行政機構の整備 |
| 財政・通貨 | 増税、財政基盤の強化、金本位制への移行 |
これらを実行するには、多額の予算と安定した税収が必要です。政府が予算案や増税案を出しても、帝国議会の協賛を得られなければ実施できません。
政党の側にも、議会で反対するだけでなく、政府へ入り、自らの政策を実行したいという要求がありました。
| 政府が求めたもの | 政党が求めたもの |
|---|---|
| 戦後事業のための予算・税・法律 | 政策決定への参加 |
| 衆議院での安定した支持 | 閣僚の地位と政権参加 |
| 継続的な議会運営 | 地方支持者へ示せる政策実績 |
両者の利害が重なり、政治の争点は「政府と政党のどちらが勝つか」から、「どの政府が、どの政党と組むか」へ移りました。
第2次伊藤内閣と自由党
1895年11月、自由党は、立憲政治と責任内閣について方針を同じくする勢力とは連携するという宣言を出しました。政府への反対を党の固定方針にせず、政策が一致すれば伊藤内閣とも協力する立場を示したのです。
1896年、板垣退助は自由党を離れ、第2次伊藤内閣の内務大臣に就任しました。1873年の明治六年政変で政府を去ってから、23年後の入閣です。
第2次松方内閣と進歩党
同じ1896年、立憲改進党、立憲革新党、大手倶楽部、中国進歩党、帝国財政革新会などが合同し、進歩党を組織しました。立憲改進党の単純な改称ではなく、複数の党派が集まった政党です。大隈重信が中心となりました。
第2次松方内閣では、松方正義首相と大隈重信外務大臣が協力したため、松隈内閣とも呼ばれます。
1897年には貨幣法が成立し、金本位制が確立しました。欧米諸国が金本位制へ移行していたことに加え、日清戦争で得た賠償金が制度移行を支えました。
この時点で、主要政党の二つの流れは次のように整理できます。
6|地租増徴案が、自由党と進歩党を結びつけた
1898年、第3次伊藤内閣は、戦後経営の財源を確保するため地租増徴案を提出しました。
地租の引き上げは、地主層を主要な支持基盤とする自由党と進歩党の双方にとって受け入れにくい政策でした。両党は増徴案に反対し、衆議院は圧倒的多数で否決します。
伊藤内閣は衆議院を解散しました。しかし、解散は自由党と進歩党の合同を促す結果になりました。
1898年6月22日、自由党と進歩党は合同し、憲政党を組織します。1881年に自由党と立憲改進党が別々に出発してから17年を経て、二つの流れが初めて一つの政党に集まりました。
この合同の目的は、政府へ反対する勢力を増やすことだけではありません。衆議院の多数を基礎に、自分たちで政府を組織することでした。

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