自由党・立憲改進党・立憲帝政党が結成されても、自由民権運動は穏やかにならず、自由党は1884年に解党しました。
その理由は、政府の弾圧だけではありません。政府と民権派の国家構想の違い、地方議会と県令の対立、松方デフレによる農村の困窮、一部活動家の急進化、急速に広がった党組織を中央が統制できない問題が重なりました。
この記事では、日本政党史の第2回として、政党競争が始まった1881年から、大同団結運動と三大事件建白運動が展開された1887年までをたどります。
政党ができたのに、なぜ運動は激しくなったのか
1881年から1887年まで|政党競争と民権運動の全体像
この時期には、政党の結成と解党、地方での事件、経済政策、憲法と内閣の準備が並行して進みました。
それぞれを別の出来事として覚えるのではなく、国会開設を前に政治の主導権を争った一つの時代として見ることが大切です。
政党結成から再結集まで
民権派が全国政党を作り、政府も憲法制定の準備へ進む
政党競争、地方政治、経済、国家制度の問題が同時に進む
政府支持の立場だけでは全国政党を維持できなかった
民権運動の急進化、農村の困窮、政党統制の限界が重なる
運動の一部が国外へ向かい、政府は中央の統治機構を整える
解党後も残った人脈と地域組織が再び連携を始める
党派を越えた政策要求が強まり、政府は活動を規制する
政党競争の始まり|自由党・立憲改進党・立憲帝政党
1881年10月、政府は国会開設の勅諭を出し、1890年に国会を開くと約束しました。
国会開設の時期が決まると、政治運動の課題は「国会を開くか」だけではなくなります。どのような憲法を作るのか。政府と議会はどのような関係になるのか。誰が候補者を立て、どの政策を掲げるのか。こうした問題に答えるため、三つの政党が結成されました。
同じ国会を見据えても、目指す政治と参加者は異なった
| 政党 | 主な人物 | 重視した政治 | 参加者・基盤 |
|---|---|---|---|
| 自由党 1881年 | 板垣退助、後藤象二郎、中島信行、星亨、河野広中ら | 自由と民権を強く主張し、フランスの政治思想からも影響を受ける | 旧土佐藩士、地方の地主・名望家、民権活動家、新聞人ら |
| 立憲改進党 1882年 | 大隈重信、河野敏鎌、小野梓、尾崎行雄、矢野竜渓ら | イギリス型の議会政治と、議会多数派と内閣の結びつきを重視 | 都市の知識人、旧官僚、新聞人、実業界との人脈など |
| 立憲帝政党 1882年 | 福地源一郎、丸山作楽、水野寅次郎ら | 天皇の権限を重視し、政府支持の立場から民党に対抗 | 政府寄りの新聞人や政治家。全国的な組織基盤は弱かった |
自由党と立憲改進党は、どこが違ったのか
大隈重信も国会開設を求めていましたが、自由党には参加しませんでした。国会が必要だという点で一致していても、目指す制度と組織を支える人々が異なっていたからです。
自由党には、自由民権運動を各地で担ってきた地方活動家や地主層が多く参加しました。立憲改進党には、1881年の明治十四年政変後に政府の外へ出た大隈の人脈に加え、都市の知識人、旧官僚、新聞人が集まりました。
立憲改進党は、議会の多数派を基礎に内閣を組織するイギリス型の議会政治を理想としました。一方の政府は、後に述べるように、君主の権限を比較的強く保つドイツ・オーストリアの制度を参考に憲法制定を進めます。
同じ「民権派」と呼ばれる人々も、一つの思想、一つの党にまとまっていたわけではありません。この違いは、1898年に自由党系と改進党系が合同して憲政党を結成した後、短期間で分裂する背景にもつながります。
立憲帝政党は、なぜ短期間で解党したのか
立憲帝政党は、自由党と立憲改進党に対抗する政府支持の政党として1882年に結成されました。しかし、翌1883年には解党します。
政党を続けるには、政府に近いという立場だけでは足りません。地方組織、継続して活動する支持者、政策を伝える新聞、候補者、資金などが必要です。立憲帝政党には新聞人が参加していましたが、自由党や立憲改進党に対抗できる全国組織を築けず、政府からも十分な支援を得られませんでした。
政党の存続を決めるのは、理念や指導者だけではありません。政策を地域へ伝え、地域の要求を中央へ届ける組織を維持できるかどうかも重要でした。
同じ時期に結成されても、組織の存続は異なった
旧党員・地域組織・人的関係は残る
残った人々が党務を支える
全国組織と政府支援を得られない
図の読み方:三党の直接的な組織系統ではなく、同じ時期に異なる国家構想を掲げた三党の経過を比較しています。

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