日本の政党が成立するまでには、明治政府内の対立、民撰議院の要求、各地の政治結社による全国運動がありました。
1873年(明治6年)の明治六年政変で、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らが政府を去ります。彼らは政府の外から批判していた人物ではなく、参議などを務めた新政府の最高指導者たちでした。
政府運営を内側から知る人々が下野すると、その一部は民撰議院の設立を求め、各地の政治結社を全国組織へまとめました。この記事では、武力による抵抗と国会開設運動が並行した時代に、政党が必要とされた理由を説明します。
政府の分裂は、なぜ全国政党の誕生につながったのか
1873年から1881年まで|政党成立までの全体像
明治六年政変から自由党成立までには、8年かかりました。その間に起きたのは、自由民権運動の広がりだけではありません。佐賀の乱や西南戦争のような士族反乱、政府による立憲制度の整備、新聞と演説の普及、地方議会の設置、私擬憲法の作成が並行して進みました。
これらを「政府に不満を持つ人々が、どの方法で政治を変えようとしたのか」という問いで整理すると、政党が必要になった理由を理解できます。
政変から全国政党の成立まで
政府内部の分裂は、なぜ自由党結成につながったのか
自由民権運動の初期には、明治政府を去った政治家が関わっていました。その背景には、明治政府の内部対立がありました。
明治六年政変は、朝鮮への使節派遣をめぐる征韓論だけで説明できる出来事ではありません。岩倉使節団から帰国した大久保利通らは、対外行動より国内制度の整備を優先しようとしました。一方、西郷らは朝鮮へ使節を送る方針を進めようとします。
そこには、外交と内政のどちらを優先するかという違いに加え、誰が政府の方針を決めるのかという主導権争いがありました。この対立の結果、維新を進めた指導者たちは政府の内と外へ分かれます。
政府を去った人々は、政治経験のない状態で反対運動を始めたわけではありません。政府がどのように政策を決め、どこに問題があり、どのような制度が必要なのかについて、それぞれ具体的な考えを持っていました。
そのため、最初に示された要求も、漠然とした「自由を与えてほしい」というものではありません。少数の政府高官だけで政治を決める仕組みを改め、選挙で選ばれた議員が話し合う場を作るという制度の提案でした。

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