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日本政党史①|明治六年政変から自由党成立まで

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日本の政党が成立するまでには、明治政府内の対立、民撰議院の要求、各地の政治結社による全国運動がありました。

1873年(明治6年)の明治六年政変で、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らが政府を去ります。彼らは政府の外から批判していた人物ではなく、参議などを務めた新政府の最高指導者たちでした。

政府運営を内側から知る人々が下野すると、その一部は民撰議院の設立を求め、各地の政治結社を全国組織へまとめました。この記事では、武力による抵抗と国会開設運動が並行した時代に、政党が必要とされた理由を説明します。

この記事でたどること

政府の分裂は、なぜ全国政党の誕生につながったのか

1 出発点 政府内部の分裂 明治六年政変で、新政府の最高指導者たちが政府の内と外へ分かれました。
2 運動の変化 地域から全国へ 政治結社が地域を越えてつながり、国会開設を求める全国運動へ発展します。
3 到達点 請願団体から政党へ 国会開設が決まり、候補者・政策・支持者をまとめる政党が必要になりました。
目次

1873年から1881年まで|政党成立までの全体像

明治六年政変から自由党成立までには、8年かかりました。その間に起きたのは、自由民権運動の広がりだけではありません。佐賀の乱や西南戦争のような士族反乱、政府による立憲制度の整備、新聞と演説の普及、地方議会の設置、私擬憲法の作成が並行して進みました。

これらを「政府に不満を持つ人々が、どの方法で政治を変えようとしたのか」という問いで整理すると、政党が必要になった理由を理解できます。

8年間の流れ

政変から全国政党の成立まで

1873
明治六年政変政府の中心にいた西郷・板垣・江藤らが下野する
1874
建白書・立志社・佐賀の乱議会を求める道と武力で抵抗する道が並んで現れる
1875
大阪会議・愛国社・言論規制政府の立憲化と統制強化が同時に進む
1877
西南戦争大規模な士族反乱が終わり、言論・結社の比重が増す
1878
愛国社再興・三新法・大久保暗殺全国運動と地方政治が広がり、指導者の世代交代が進む
1880
国会期成同盟・集会条例国会開設要求が全国化し、政府が集会を規制する
1881
明治十四年政変・国会開設の勅諭・自由党国会開設の期限が決まり、運動組織が政党へ進む

政府内部の分裂は、なぜ自由党結成につながったのか

自由民権運動の初期には、明治政府を去った政治家が関わっていました。その背景には、明治政府の内部対立がありました。

明治六年政変は、朝鮮への使節派遣をめぐる征韓論だけで説明できる出来事ではありません。岩倉使節団から帰国した大久保利通らは、対外行動より国内制度の整備を優先しようとしました。一方、西郷らは朝鮮へ使節を送る方針を進めようとします。

そこには、外交と内政のどちらを優先するかという違いに加え、誰が政府の方針を決めるのかという主導権争いがありました。この対立の結果、維新を進めた指導者たちは政府の内と外へ分かれます。

政府を去った人々は、政治経験のない状態で反対運動を始めたわけではありません。政府がどのように政策を決め、どこに問題があり、どのような制度が必要なのかについて、それぞれ具体的な考えを持っていました。

そのため、最初に示された要求も、漠然とした「自由を与えてほしい」というものではありません。少数の政府高官だけで政治を決める仕組みを改め、選挙で選ばれた議員が話し合う場を作るという制度の提案でした。

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