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日本政党史①|明治六年政変から自由党成立まで

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同じ政変から三つの道へ|武力と議会の分岐

明治六年政変で政府を去った人々は、その後、同じ道を歩んだわけではありません。江藤新平、西郷隆盛、板垣退助の三人を比べると、政府に抵抗する方法が一つではなかったことがわかります。

1873年 明治六年政変 政府を去った指導者たちは、同じ道を選ばなかった
↓
江藤新平 建白書から佐賀の乱へ 制度改革を求めた直後、武力蜂起へ進み、1874年に処刑されました。
西郷隆盛 鹿児島から西南戦争へ 私学校を中心とする士族の柱となり、1877年に政府軍と戦いました。
板垣退助 結社・請願から自由党へ 言論と組織によって国会を求め、全国政党の結成へ進みました。

図のポイント:武力と制度改革の境界は、当初から明確だったわけではありません。

江藤は、1874年1月の民撰議院設立建白書に名を連ねました。しかし、その直後には佐賀の乱に加わり、同年4月に処刑されます。一人の人物のなかに、制度による改革への要求と、武力による抵抗が近接していました。

西郷は鹿児島へ戻り、私学校を中心とする士族たちの精神的な柱となります。そして1877年、西南戦争で政府軍と戦い、命を落としました。

これに対し、板垣退助は、政治結社を作り、新聞や演説で考えを伝え、請願による国会開設運動を続けます。

政府に対する行動には、二つの方向がありました。一つは、武力によって政府を倒す、または政策転換を迫る方法です。もう一つは、言論・結社・請願・議会という制度を使う方法でした。

ただし、当時の人々にとって、この境界は現在から見るほど明確ではありません。江藤のように、議会設立を求めながら武力蜂起へ向かった人物もいたからです。

また、「西郷が死んだから自由民権運動が始まった」と考えるのも正確ではありません。愛国公党、民撰議院設立建白書、立志社は、いずれも1874年にすでに登場しています。

西南戦争後、武力による大規模な士族反乱はほぼ終わりました。その後は、言論・結社・請願による政治運動の比重が相対的に増えました。

民撰議院設立建白書|少数者だけで政治を決めてよいのか

1874年1月、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らは愛国公党を結成し、政府へ民撰議院設立建白書を提出しました。

建白書の論理
1 問題一部の政府高官だけが政治を独占している
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2 原則政治は広く意見を集め、公の議論によって決めるべきである
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3 制度選挙で選ばれた議員が話し合う民撰議院を設ける

運動の出発点は、抽象的な自由の要求だけでなく、「少数者だけで決める政治をどう改めるか」という手続きへの批判でした。

建白書は、少数の有力官僚だけで政治を決める状態を「有司専制」と批判しました。そして、政治には「公議」、つまり広く意見を集めて話し合う仕組みが必要だと訴えます。そのための制度が民撰議院でした。

ただし、この要求が、ただちにすべての成人へ選挙権を認める普通選挙を意味したわけではありません。まず争点となったのは、政府高官だけで政治を決める状態から、選挙で選ばれた議員が政治に参加する状態へ進めるかどうかでした。

運動の初期には、「自由」や「天賦人権」に加え、なぜ少数の人間だけで国のことを決めるのかという、政治の手続きに対する批判がありました。

建白書は『日新真事誌』に掲載されました。新聞や雑誌が内容を伝え、演説家や知識人が説明し、人々が各地で議論したことで、民撰議院や国会開設の必要性が各地で論じられました。

この時期には、政治運動の考えを新聞・雑誌・演説で伝える方法が定着し、後の政党も同じ方法を用いました。

1875年の二面性|政府も立憲制度を整備していた

自由民権運動の歴史を、「国会を求める人々」と「変化を拒む政府」の対立だけで説明すると、1875年の動きを理解できません。

1875年の二面性

制度を作りながら、言論を統制する

政府の動き具体的な政策政府側の考え
立憲化立憲政体樹立の詔、元老院、大審院、地方官会議近代国家として制度を段階的に整える
統制強化讒謗律、新聞紙条例急進的な運動や政府批判を管理する

対立の核心:近代化に賛成か反対かではなく、誰が主導し、どの速さで、誰を政治へ参加させるかが争われました。

この年、大久保利通、木戸孝允、板垣退助らは大阪会議で妥協を図りました。その結果、政府は立憲政体樹立の詔を出し、元老院・大審院・地方官会議を設けます。急進的ではないものの、政府自身が立憲政治へ段階的に進む方針を公式に示しました。板垣も一時、政府へ復帰します。

ところが同じ年、政府は讒謗律と新聞紙条例を制定し、政府批判や新聞の言論を取り締まりました。

一見すると矛盾しています。しかし政府側から見れば、「近代国家の制度は必要だが、急進的な運動や政府批判は統制しなければならない」という一つの考えでつながっていました。

したがって、当時の対立は「近代化を進める側」と「近代化に反対する側」の争いではありません。政府側も民権派も、近代国家を作ろうとしていました。

違っていたのは、誰が改革を主導するのか、どの速さで進めるのか、政府の権力をどこまで制限するのか、誰を政治参加に加えるのかという点です。

政府の制度改革と自由民権運動は、別々の歴史ではありません。同じ「日本はどのような近代国家になるのか」という問いに対する、異なる答えだったのです。

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