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日本政党史③|憲法・総選挙・帝国議会

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目次

憲法と議会は、政党を政治の外へ置けなくした

1880年代の自由民権運動では、国会を開くことが大きな目標でした。ところが、1890年に帝国議会が始まると、政党の課題は変わります。

演説、建白、請願によって政府へ要求を届けるだけではなく、選挙で議員を送り、法律と予算を審議し、採決で党の方針を示さなければならなくなったのです。

政府は、政党から距離を置いて行政を進める超然主義を掲げました。しかし、大日本帝国憲法では、法律と予算の成立に帝国議会の協賛が必要とされました。第1回衆議院議員総選挙では、政府に批判的な民党が多数を占めます。

ここに、明治政府が抱える矛盾がありました。

政党に左右されず政治を行いたい
↓
しかし法律と予算には帝国議会の協賛が必要
↓
衆議院では民党が多数を占める
↓
政府は、政党と交渉しなければ政策を進められない

この記事では、日本政党史の第3回として、大同団結運動が分裂した1887年から、憲法、総選挙、帝国議会を経て、立憲自由党が自由党へ改称した1891年までをたどります。

まず流れを確認|1887年から1891年まで

年主な出来事政党史での意味
1887年大同団結運動、夏島草案の審議、三大事件建白運動、保安条例民権派が再結集を進める一方、政府は憲法案を具体化した
1888年枢密院設置、市制・町村制公布、大隈重信が外相として政府へ復帰憲法審議と地方制度の整備が進み、民権側にいた人物も政府へ戻った
1889年大日本帝国憲法発布、黒田清隆が超然主義を表明、後藤象二郎の入閣、大同団結運動の分裂、大隈重信遭難事件政府は立憲国家の仕組みを示したが、政党から距離を置く立場も明確にした
1890年第1回衆議院議員総選挙、立憲自由党結成、教育勅語発布、第1帝国議会開会政治の中心が国会開設要求から選挙・政党組織・予算審議へ移った
1891年立憲自由党が自由党へ改称議会活動を担う自由党系の政党が組織を整え、政府との対立と交渉へ進んだ

この5年間には、民権派の再編、憲法の制定、地方制度の整備、条約改正問題、選挙、議会が重なっています。政党史だけを切り離すのではなく、政府がどのような国家制度を作ったのか、その制度のなかで政党に何が求められたのかを見る必要があります。

1|現代と同じ言葉でも、制度の中身は違う

この時期には、現在も使われる「憲法」「国会」「選挙」「二院制」という言葉が登場します。ただし、その内容は現在の制度と同じではありません。

用語当時の意味現在と比べるときの注意
欽定憲法君主が制定し、臣民へ与える形式の憲法国民が制定権力の主体となる民定憲法とは出発点が異なる
協賛帝国議会が天皇の立法権の行使に参与し、法律と予算を審議して同意すること帝国議会は「国権の最高機関」とされた現在の国会とは位置づけが異なる
二院制衆議院と貴族院の二院で帝国議会を構成する制度貴族院は国民の普通選挙によって選ばれる議院ではなかった
制限選挙性別、年齢、納税額などの条件を満たす者だけが投票できる選挙第1回総選挙の有権者は総人口の約1%だった
民党自由民権運動の流れをくみ、藩閥政府に対抗した政党・議員勢力の総称一つの政党名ではなく、立憲自由党や立憲改進党などを含む
吏党政府・官僚側を支持した議員勢力の総称一つの政党名ではなく、第1議会の大成会などを含む
超然主義政府が特定の政党を基礎にせず、政党から距離を置いて政治を行おうとする立場総選挙で多数を得た党が内閣を組織する現在の議院内閣制とは異なる
民力休養税負担を軽くし、国民生活と経済の回復を図るという主張地租軽減や政府支出削減を求める民党の旗印になった

大日本帝国憲法は、天皇を統治権の中心に置きました。内閣が衆議院の多数派を基礎に組織されることも定めていません。

一方で、議会が形だけの存在だったと考えるのも適切ではありません。法律と予算には帝国議会の協賛が必要でした。政府が軍備や行政のために予算を求めても、衆議院が同意しなければ、そのまま成立させることはできません。

この権限が、政党の政治力を支えることになります。

2|大同団結運動は、なぜ国会開設前に分裂したのか

1887年、後藤象二郎を中心に、分散していた民権派をまとめる大同団結運動が進みました。1890年の国会開設を前に、細かな違いを越えて政府へ対抗しようとした運動です。

しかし、運動は一つの政党へそのまま移ったわけではありません。分裂の理由は、大きく二つありました。

政党として固めるか、緩やかな連合を保つか

第一の対立は、組織の形をめぐるものでした。

河野広中、末広重恭、大石正巳らは、運動を明確な政治組織である「政社」としてまとめるべきだと考えました。この流れが政社派で、後に大同倶楽部を作ります。

一方、大井憲太郎らは、各団体の独立性を残した緩やかな連合を維持すべきだと考えました。この流れが非政社派で、後に大同協和会を組織します。

政府へ対抗するという目標が近くても、誰が方針を決めるのか、各地の団体がどこまで中央へ従うのかによって、組織の形は変わります。これは、後の政党再編でも繰り返される問題です。

運動の中心人物が政府へ入った

第二の理由は、後藤象二郎の入閣でした。

1889年、後藤は黒田内閣の逓信大臣になります。政府への対抗勢力をまとめていた人物が政府へ入ったことで、参加者は判断を迫られました。

後藤に従って政府との協力を探るのか。政府への対抗を続けるのか。一つの党へまとめるのか。各団体の連合を保つのか。それまで内部にあった違いが、後藤の入閣をきっかけに表面へ出ました。

大同団結から立憲自由党までの系統

1884年 自由党解党
↓
旧党員・地方組織・人的関係は残る
↓
1887年 大同団結運動
├ 政社派 → 大同倶楽部
└ 非政社派 → 大同協和会
+ 再興自由党
+ 愛国公党(第二次)
+ 九州連合同志会
↓
1890年9月 大同倶楽部・再興自由党・愛国公党・九州連合同志会が合同
↓
立憲自由党
↓
1891年 自由党へ改称
補足:立憲改進党は合同せず、独自に存続

ここで注意したいのが、党名の再利用です。1890年前後の愛国公党は、1874年に板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らが結成した愛国公党とは別の組織です。

同じように、1881年の自由党と1891年に改称した自由党も、組織の経過を区別して確認する必要があります。党名が同じでも、参加者、組織、置かれた制度が同じとは限りません。

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