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日本政党史③|憲法・総選挙・帝国議会

目次
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3|民権派が分裂する一方、政府は国家制度を整えた

民権派が組織の形をめぐって対立していたころ、政府は憲法と国会を支える制度を整えていました。

憲法起草の中心となったのは伊藤博文です。ただし、伊藤だけで作ったわけではありません。井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎が深く関わり、ドイツ人法学者ロエスレルの草案や意見も参考にされました。

1887年には、神奈川県夏島にあった伊藤の別荘で憲法草案が審議されました。これが夏島草案です。三大事件建白運動が展開されていた時期に、政府側では憲法の条文が具体化されていました。

1888年には枢密院が設置され、伊藤博文が初代議長になります。枢密院は、憲法と皇室典範の草案を審議し、その後も天皇の最高諮問機関として重要な国務を扱いました。国民の選挙で構成された議会ではありません。

同じ1888年には、市制・町村制も公布されます。地方にも選挙と議会の制度が設けられましたが、選挙権には男性、年齢、納税額などの条件がありました。地主、資産家、地方名望家が地方政治の主な担い手となり、後の政党はこうした地方有力者との関係を通じて選挙基盤を作っていきます。

明治国家の権力は、衆議院だけに集まっていなかった

機関・領域主な役割政党との関係
内閣行政を担当し、政策と予算案を作る衆議院多数派を基礎に作ることは憲法に定められていなかった
帝国議会法律と予算を審議し、天皇の立法権に協賛する衆議院では選挙を通じて政党が議席を得た
枢密院天皇の諮問に応じ、憲法や重要国務を審議する選挙によらず、政党が衆議院で多数を取っても直接支配できない
軍国防と軍事を担う後の政党政治でも、内閣・議会との関係が問題になる
宮中天皇と皇室を支える領域政府や政党の政治とは異なる仕組みと人脈を持つ

政党が衆議院で多数を取っても、それだけで国家全体を動かせたわけではありません。この構造は、後の政党内閣、軍部大臣現役武官制、宮中と政府の関係を理解する前提になります。

4|大日本帝国憲法は、何を制限し、何を可能にしたのか

1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。天皇を元首とし、統治権を総攬すると定める欽定憲法です。翌1890年11月29日、第1帝国議会の開院式と同じ日に施行されました。

憲法は、帝国議会、内閣、裁判所などの国家機関を位置づけました。臣民の居住・移転、信教、言論、出版、集会、結社、財産などの権利も定めています。ただし、多くの権利には「法律ノ範囲内」という条件が付いていました。

民権派が求めた憲法、国会、選挙、一定の権利保障は制度に入りました。一方、植木枝盛らの私擬憲法が示した強い権利保障や、国民が政治の最終的な主権者になる仕組みとは異なります。

政党にとって重要だった法律と予算の協賛

大日本帝国憲法のもとで、衆議院と貴族院からなる帝国議会が置かれました。原則として、法律と予算には両院の協賛が必要です。

政府が政策を進める
↓
法律や予算が必要になる
↓
帝国議会の協賛を得る必要がある
↓
衆議院で多数を持つ政党・議員勢力との交渉が必要になる

天皇と政府の権限が大きい憲法であっても、政党が活動する余地はありました。政府が政党を警戒していても、議会の協力を得なければ、必要な政策を継続して進めることが難しくなったからです。

貴族院は、現在の参議院とは成り立ちが違う

帝国議会は二院制でしたが、貴族院と現在の参議院を同じものとして捉えることはできません。

貴族院は、皇族、華族、天皇が任命する勅選議員、多額納税者議員などで構成されました。伯爵・子爵・男爵の議員は、それぞれ同じ爵位の華族による互選です。多額納税者議員も、限られた納税者の互選で選ばれました。

国民が同じ条件で二つの議院の議員を選んだわけではありません。民選の衆議院に政党が議席を持つ一方、貴族院は別の成り立ちと政治基盤を持っていました。

憲法発布と同時期に、教育による国民統合も進んだ

憲法発布当日、初代文部大臣の森有礼が襲撃され、翌日に亡くなりました。政党の再編そのものではありませんが、急速な制度改革に対する強い反発が社会にあったことを示す事件です。

1890年10月30日には教育勅語が発布されます。政府は、憲法、議会、行政、地方制度を整えると同時に、教育を通じて国家と国民を結ぶ方針も進めました。

政治参加の制度と教育による国民統合は、別々の歴史ではありません。明治政府が、どのような国を作り、その国を支える人々に何を求めたのかという同じ問題につながっています。

5|超然主義と条約改正問題が示した政府と政党の距離

憲法発布の翌日、1889年2月12日、黒田清隆首相は、政府が政党から距離を置いて政策にあたる立場を表明しました。これが超然主義です。

政府は、自由民権運動、政党間の対立、激化事件を経験していました。そのため、政党は国家全体よりも党派の利益を優先するのではないかという警戒がありました。行政は天皇を中心に運営し、選挙で多数を得た特定の党へ任せるべきではないと考えたのです。

しかし同じ黒田内閣には、明治十四年政変で政府を去った大隈重信が外務大臣として入っていました。政府側と民権側の境界は、人によって行き来があり、常に固定されていたわけではありません。

大隈重信の条約改正案は、なぜ反対されたのか

不平等条約の主な問題は、外国人が日本で起こした事件を外国側の領事などが裁く領事裁判権と、日本が関税率を自由に決められない関税自主権の制限でした。

大隈は国別交渉を進めましたが、外国人が関わる事件について大審院へ外国人判事を任用する内容などが明らかになると、反対が強まります。条約を改正しても、日本の司法権に外国人が入るなら十分な主権回復ではない、という批判でした。

1889年10月18日、玄洋社社員の来島恒喜が大隈の馬車へ爆弾を投げ、大隈は右脚を失う重傷を負いました。条約改正交渉は中止され、黒田内閣も総辞職へ向かいます。同年12月、山県有朋が首相となりました。

「民権」だけでなく「国権」も政治の軸になった

1880年代前半まで、政治運動の中心には、政府と人民の関係を問う民権がありました。条約改正、朝鮮問題、欧米列強との関係が大きな争点になると、国家の独立、主権、安全保障を重視する国権も政治の判断軸になります。

民権と国権は、どちらか一方を選ぶ単純な対立ではありません。

「国民の権利を広げたい」という考えと、「列強に対抗できる国家を整えたい」という考えは、一人の政治家や一つの政党のなかで同時に持つことができます。そのため、以後の政党は政府に賛成か反対かだけでは分けられず、権利、外交、軍備、税負担をどのように組み合わせるかで違いが表れるようになります。

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