MENU
記事を探す

日本政党史③|憲法・総選挙・帝国議会

目次
当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

6|第1回総選挙で、政党に新しい役割が加わった

1890年7月1日、日本で最初の衆議院議員総選挙が行われました。定数は300です。自由民権運動が求めてきた、選挙によって議員を選ぶ国会が実施段階に入りました。

ただし、選挙権は25歳以上の男子で、直接国税15円以上を納める者に限られていました。有権者は約45万人で、総人口の約1%です。女性、労働者、小農、所得の低い男性の多くは投票できませんでした。

当選者には、豪農、地主などの地方有力者が多く含まれました。納税要件を満たし、地方社会で人脈、信用、資金を持つ名望家が、候補者にも有権者にもなりやすかったからです。

この選挙を通じて、政党は中央の指導者と地方名望家を結ぶ組織としての性格を強めました。

民党は多数を得たが、一つの政党ではなかった

第1回総選挙では、旧自由党系と立憲改進党など、政府に批判的な民党が多数を占めました。超然主義を掲げた政府は、衆議院で批判勢力に向き合うことになります。

しかし、民党は一つの党ではありません。旧自由党系と立憲改進党は、政府へ対抗する点で協力できても、組織、人脈、政策の考え方が異なっていました。

立憲自由党は、なぜ再び大きな政党を必要としたのか

選挙後の1890年9月15日、大同倶楽部、再興自由党、愛国公党、九州連合同志会が合同し、立憲自由党を結成しました。

議会開設前の政治運動では、演説、建白、請願によって要求を広げることが重要でした。議会が始まると、法律案と予算案を読み、党内で方針を決め、多数の議員が採決で同じ行動を取る必要があります。

そのため、旧自由党系の諸派には、議員をまとめる大きな議会組織が必要になりました。

立憲自由党が検討した政策には、新聞紙条例・集会条例などの改正、選挙権拡張、関税自主権の回復、教育の拡張、地租軽減、営業税などが含まれました。「自由」「民権」という大きな理念だけでなく、税制、外交、教育、選挙制度を扱う政策政党へ移る過程が表れています。

立憲改進党は、この合同に加わらず独自に存続しました。議会には、立憲自由党と立憲改進党という二つの主要民党が並ぶことになります。

7|第1帝国議会で、理念の対立が予算の対立になった

第1帝国議会は1890年11月25日に召集され、11月29日に開院式が行われました。最大の争点は予算です。

政府は、軍備、行政、国家制度を整えるための支出を必要としました。その背景には、山県有朋が示した主権線・利益線という考え方があります。

主権線は日本の領土そのもの、利益線は日本の安全保障に大きな影響を与える周辺地域を指します。山県は、とりわけ朝鮮半島の情勢を重視し、本土だけでなく周辺の国際関係にも対応する必要があると考えました。

一方、民党は政費節減・地租軽減・民力休養を求めました。政府支出の無駄を減らし、重い税負担を軽くするべきだと主張したのです。

政府と民党の違いを、単純な善悪にしない

政府側が重視したこと民党側が重視したこと
列強に囲まれた国際情勢への対応国民が負う地租や税の軽減
軍備と行政制度の整備政府支出の削減
国家の安全保障と継続的な統治生活と経済の回復、民力休養

この対立を「民党は軍備に反対した」「政府は国民生活を考えなかった」とだけ説明すると、それぞれが直面していた問題を見失います。

争われたのは、国家の安全保障と国民負担のどちらへ、どれだけの資金を配分するかでした。政治の争点が、大きな理念から具体的な予算配分へ移ったのです。

政府へ反対するだけでは、党をまとめられなかった

予算審議の過程で、立憲自由党系の一部議員は政府との妥協へ動きました。

新しい立憲国家の最初の議会で予算を成立させられなければ、日本は議会政治を運営できない国と見られるかもしれません。政府を追い込むことより、議会制度を機能させることを優先した議員がいました。

この判断は、政府へ反対するという共通目的だけでは、政党を長く統一できないことを示しました。

議会で活動する政党には、外交、軍事、税、予算、地方行政について具体的な決断が求められます。党内では、政府とどこまで妥協するのか、どの政策を優先するのか、誰が交渉を担うのかという違いが表面へ出ます。

国会開設以前には政府への対抗が人々をまとめました。国会開設後には、政策と採決をそろえる仕組みが政党の存続を左右するようになったのです。

政府が設計した制度が、政府を政党との交渉へ向かわせた

1887年から1891年までの流れを、政党と国家制度の二つの軸でつなぎます。

民権派の再結集
大同団結運動 → 組織形態の対立と後藤象二郎の入閣 → 複数の党派へ分裂
↓
第1回総選挙 → 民党が多数 → 旧自由党系諸派が立憲自由党へ合同
↓
法律・予算・採決を扱う議会政党へ
政府の制度整備
憲法草案 → 枢密院 → 大日本帝国憲法 → 総選挙・帝国議会
↓
超然主義を掲げる
↓
しかし法律と予算には帝国議会の協賛が必要
↓
衆議院多数派との交渉が避けられなくなる

大日本帝国憲法によって、自由民権運動の要求がすべて実現したわけではありません。

憲法、国会、選挙、一定の権利保障は制度になりました。一方、選挙権は総人口の約1%に限られ、天皇の権限は大きく、貴族院も置かれました。政府は、衆議院の多数党が内閣を組織する政党内閣を認めていません。言論、集会、結社への規制も残りました。

自由民権運動が提起した課題は、「国会を開くこと」で終わりませんでした。選挙権の拡大、政党内閣、言論と集会の自由、税負担の軽減へ移ります。これらは、後の護憲運動や普通選挙運動へ引き継がれていきます。

現代への学び|制度が始まると、反対運動にも決断が求められる

大同団結運動では、政府へ対抗するという目標が人々を結びました。しかし、一つの政党を作ろうとすると、中央と地方の関係、意思決定の方法、指導者の進退をめぐる違いが表れました。

第1帝国議会では、その問題がさらに具体的になります。予算を否決して政府へ要求を通すのか。最初の議会を機能させるために妥協するのか。どちらを選んでも、利益と負担がありました。

制度の外から要求する段階では、共通の反対目標が組織をまとめることがあります。制度のなかで政策を決める段階になると、税、外交、安全保障、教育などについて優先順位を示さなければなりません。

政党の役割は、同じ意見の人を集めることだけではありません。異なる地域や立場の要求を調整し、限られた財源の使い道を決め、その判断に責任を持つことにもあります。

次回予告

次回は、第1帝国議会で始まった政府と民党の対立が、衆議院解散と選挙干渉へ進み、それでも政府が政党との提携を必要とするようになった過程をたどります。

政府の側に立っていた伊藤博文が、1900年に自ら立憲政友会を結成したのはなぜか。政府と政党の対立が提携へ変わるまでを見ていきます。

日本史と政党再編の二つの流れから読み直す

制度そのものを確かめる場合は「日本史の流れ」、政党の結成・解党・再結集を追う場合は「政党史の流れ」へ進んでください。

次に読む記事

知りたい流れから選ぶ

参考資料・出典

オブシディアン解説

  • 「03|解説 憲法・総選挙・帝国議会(1887-1891)」

国立国会図書館

国立公文書館

1 2 3
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次