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帝国議会とは?日本に議会政治が根づいた瞬間

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1890年11月29日。東京の仮議事堂に、全国から選ばれた衆議院議員と、皇族・華族などからなる貴族院議員が集まりました。

前年に発布された憲法が施行され、日本で初めての帝国議会が開院した日です。江戸幕府の政治が終わってから約23年。国会開設を求めた人々の運動と、政府による制度づくりが、ようやく一つの議場で交わろうとしていました。

しかし、議会が開かれたからといって、現在と同じ民主政治が始まったわけではありません。投票できたのは国民のごく一部で、内閣は議会の多数派から作られる制度ではなく、天皇と政府には強い権限が残されていました。

それでも、政府は法律と予算を成立させるため、議会と向き合わなければなりません。帝国議会とはどのような議会で、対立を繰り返しながら日本の政治をどう変えたのか。最初の選挙から順番に見ていきます。


目次

帝国議会をひとことで表すと

帝国議会とは、大日本帝国憲法のもとで1890年から1947年まで置かれ、貴族院と衆議院が法律と予算を審議した日本最初の近代的な議会です。

現在の国会の前身ですが、国民主権に基づく現在の国会とは立場も権限も異なります。天皇が帝国議会の協賛を得て立法権を行う制度であり、議会が国権の最高機関とされたわけではありません。

開設1890年(明治23年)
根拠大日本帝国憲法
構成貴族院・衆議院の二院制
主な役割法律・予算の審議、政府への質問や建議
終わり1947年(昭和22年)、日本国憲法と国会法の施行により国会へ移行

なぜ日本に議会が必要とされたのか

帝国議会は、政府だけの発案で突然生まれたものではありません。1874年、板垣退助いたがきたいすけらが民撰議院設立建白書を提出し、藩閥の一部が政治を独占する状況を批判しました。

この要求は各地の自由民権運動へ広がり、国会開設、憲法制定、地方政治への参加を求める声が強まります。一方の政府も、近代国家として統一的な法律と行政を整え、国内外へ安定した統治の仕組みを示す必要がありました。

1881年、政府は国会開設の勅諭こっかいかいせつのちょくゆを出し、1890年に国会を開くと約束します。その後、内閣制度、華族制度、選挙法、議院法などが整えられ、1889年に大日本帝国憲法が発布されました。

年議会開設への動き
1874年板垣退助らが民撰議院設立建白書を提出
1881年国会開設の勅諭で1890年の開設を約束
1885年内閣制度を創設
1889年大日本帝国憲法と衆議院議員選挙法を公布
1890年7月第1回衆議院議員総選挙を実施
1890年11月大日本帝国憲法施行、第1回帝国議会開院

自由民権運動が求めた国会と、政府が構想した立憲国家。その二つが同じ制度に合流したことで、帝国議会は最初から緊張を抱えて出発しました。


日本で初めての総選挙は、誰が投票できたのか

第1回衆議院議員総選挙は、1890年7月1日に行われました。投票率は93.7%と非常に高い数字でしたが、その前提には厳しい制限がありました。

  • 選挙権:満25歳以上の男性で、直接国税15円以上を納める人
  • 被選挙権:満30歳以上の男性で、直接国税15円以上を納める人
  • 衆議院の定数:300議席

有権者は総人口約3990万人の約1%にすぎませんでした。女性には選挙権がなく、男性でも相当額の税を納める地主や商工業者などに限られていたのです。

それでも、投票によって国政の代表を選ぶ仕組みが全国で実施されたことは大きな変化でした。自由党・立憲改進党など民権派の流れをくむ議員は171議席を占め、衆議院の過半数を得ます。彼らは政府寄りの吏党りとうに対し、民党みんとうと呼ばれました。


貴族院と衆議院は、どう違ったのか

帝国議会は、貴族院きぞくいんと衆議院しゅうぎいんの二院で構成されました。法律案や予算案は、原則として両院の審議を経る必要があり、二つの院の法的な権限は基本的に対等でした。

比較貴族院衆議院
主な構成皇族、華族、勅選議員、多額納税者議員など選挙で選ばれた議員
議員の選び方世襲・同爵者間の互選・勅任など、区分ごとに異なる制限選挙による公選
解散なし天皇の命により解散あり
政治的な傾向政府に近い議員が多かったが、常に政府の言いなりではない民党など政党勢力が活動の中心となった

貴族院は、公爵・侯爵の終身議員、伯爵・子爵・男爵の互選議員、学識や功績による勅選議員、各地の多額納税者から選ばれる議員など、多様な区分を持っていました。単に「貴族だけの院」ではありません。

この二院制には、選挙による衆議院の意思だけで政治が急変するのを抑え、皇室・華族・官僚・地域有力者など異なる勢力を国政へ組み込む役割がありました。一方で、国民の意思がそのまま政治を決める制度ではないことも示しています。


帝国議会には何ができ、何ができなかったのか

帝国議会は、形だけの集会ではありませんでした。法律の成立には両院の協賛が必要で、議会は政府が提出した予算を審議し、削減を求めることができました。議員は政府へ質問し、意見を建議することもできました。

しかし、現在の国会と同じ権限を持っていたわけではありません。

  • 内閣は議会に対して連帯責任を負わず、首相を議会が指名する制度ではなかった
  • 天皇には、議会の召集・閉会・衆議院解散、条約締結、軍の統帥などの大権があった
  • 議会が予算を議決できない場合、政府は前年度予算を執行できた
  • 緊急時には、議会閉会中の緊急勅令や緊急財政処分が認められていた

つまり帝国議会は、政府を自由に交代させられる議会ではありませんでした。それでも政府は、新しい法律や新規の予算を安定して成立させるためには、議会、とりわけ公選議員からなる衆議院の協力を必要としました。

制度上の権限が限られていても、運用しだいで政治への影響力を広げられる。この余地が、開会直後から政府と民党の対立を生みます。

次のページでは、第1回帝国議会の予算攻防から選挙干渉、政府と政党の提携まで、議会政治が現実の力になっていく過程をたどります。

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