対立と妥協から政党政治へ
議会を開けば、政府の提案がそのまま通る。明治政府の指導者たちが、そう期待していたわけではありません。憲法発布直後、首相の黒田清隆は、政府は政党の意向に左右されずに政策を行うという趣旨を演説しました。この姿勢は超然主義と呼ばれます。
ところが、1890年11月に第1回帝国議会を迎えたとき、首相は山縣有朋に代わっていました。山縣内閣はロシアの南下を警戒して軍備を強化しようとしましたが、衆議院の過半数は民党です。最初の議会から、政府は予算をめぐる厳しい交渉に直面しました。
第1回帝国議会で、政府と民党はなぜ衝突したのか
最大の争点は、翌年度の国家予算でした。政府は軍備拡張と行政運営に必要な支出を求めます。これに対し、民党は民力休養・政費節減を掲げました。
- 政府の考え:ロシアへの備えと近代国家の建設には軍事費・行政費が必要
- 民党の考え:政府支出を減らし、地租などを負担する国民の生活を休養させるべき
民党は予算の大幅削減を求め、政府と対立しました。しかし、最後まで一枚岩だったわけではありません。政府側の働きかけを受けて一部議員が妥協し、削減幅を調整した予算が成立します。
ここで大切なのは、政府か民党のどちらかが完全に勝ったと見ることではありません。政府は衆議院の同意なしに希望どおりの予算を通せず、民党も政府を倒して自ら内閣を作れる制度ではありませんでした。双方が議場で対立し、交渉し、妥協点を探す政治が始まったのです。
1892年、選挙への政府干渉が流血を招く
第2回帝国議会でも政府と民党は予算をめぐって衝突し、1891年12月、衆議院は初めて解散されました。翌1892年2月の第2回総選挙で、第1次松方内閣は政府支持派を増やそうとします。
内務大臣の品川弥二郎のもと、府県知事や警察が民党候補の選挙活動へ大規模に干渉しました。各地で衝突が起き、政府統計でも死者25人、負傷者388人にのぼります。
政府が議会を設けながら、自らに反対する議員の当選を公権力で妨げる。この事件は、立憲政治の出発点が決して順調ではなかったことを示します。しかも干渉にもかかわらず民党は優勢を保ち、品川は辞任しました。
帝国議会は政府に従うだけの場にはならず、政府も強硬策だけでは議会を動かせないことが明らかになりました。
政府は、なぜ政党との協力へ向かったのか
1892年に第2次伊藤内閣が成立すると、政府と政党の関係は対立だけでは説明できなくなります。伊藤博文は、条約改正、軍備、産業育成などを進めるため、議会の協力を得る現実的な道を探りました。
第4議会では軍艦建造費をめぐって再び政府と民党が衝突します。1893年、明治天皇が政府と議会の協調を求める和協の詔勅を出し、内廷費と官吏の俸給を削って建艦費に充てる案が示されました。双方が譲歩し、予算は成立します。
これは天皇の言葉で対立を収めた事例であり、現代の議会政治と同じ解決方法ではありません。しかし同時に、政府が議会の反対を無視できず、妥協を必要とした事実も示しています。
日清戦争をはさみ、政府と政党は対立と提携を繰り返しました。1898年には大隈重信を首相、板垣退助を内務大臣とする最初の政党内閣が成立し、1900年には伊藤が立憲政友会を結成します。
憲法を作った政府側の中心人物が、自ら政党を率いるようになったことは象徴的でした。議会の多数派と協力しなければ、政府は安定して予算や法律を成立させられない。開設から10年を経て、その現実が制度の運用を変えたのです。
帝国議会は、その後どう変わったのか
| 年 | 議会政治の変化 |
|---|---|
| 1890年 | 第1回帝国議会。政府と民党が予算をめぐって対立 |
| 1892年 | 第2回総選挙で政府による大規模な選挙干渉 |
| 1898年 | 第1次大隈内閣。日本最初の政党内閣が成立 |
| 1900年 | 伊藤博文を総裁として立憲政友会が結成 |
| 1901〜1913年 | 桂園時代。軍・官僚勢力と衆議院の政党が協力と交代を重ねる |
| 1918年 | 原敬が本格的な政党内閣を組織 |
| 1925年 | 男子普通選挙法が成立 |
| 1940年 | 既成政党が解党し、大政翼賛会が成立 |
| 1947年 | 日本国憲法・国会法の施行により国会へ移行 |
帝国議会の57年間を、民主化が一直線に進んだ歴史として見ることはできません。選挙権は段階的に広がり、政党内閣も実現しましたが、女性参政権は戦後まで認められず、元老・貴族院・官僚・軍部など議会外の力も強く残りました。
昭和期には軍部の政治的影響力が強まり、政党内閣は途絶えます。戦時体制のもとで既成政党が解党し、議会が政府と軍事政策を十分に抑止できなかったことも、帝国議会の歴史から外すことはできません。
帝国議会と現在の国会は何が違うのか
| 比較点 | 帝国議会 | 現在の国会 |
|---|---|---|
| 憲法 | 大日本帝国憲法 | 日本国憲法 |
| 主権 | 天皇主権 | 国民主権 |
| 位置づけ | 天皇の立法権に協賛する機関 | 国権の最高機関・唯一の立法機関 |
| 二院 | 貴族院・衆議院 | 参議院・衆議院 |
| 議員の選出 | 貴族院は世襲・互選・勅任など、衆議院は公選 | 両院とも国民の選挙 |
| 首相 | 議会による指名規定なし | 国会が国会議員から指名 |
| 内閣の責任 | 議会への連帯責任を憲法に規定せず | 国会に対して連帯責任を負う |
現在の国会は帝国議会の名称を変えただけのものではありません。主権、議員の選び方、内閣との関係が根本から変わりました。
一方、議場で法律と予算を審議し、政府と議員が論争し、公開された議事録を残す営みは帝国議会から続いています。制度の違いと継承の両方を見ることで、日本の議会政治がどのように積み重ねられたかが分かります。
帝国議会が日本の政治に残したもの
帝国議会の最大の意味は、議会が存在したことだけではありません。政府の政策を、選挙、予算審議、公開の討論、政党間の交渉を通じて動かす道が生まれたことにあります。
最初の有権者は国民の約1%に限られ、政府は選挙干渉さえ行いました。それでも議会は政府の追認機関にはとどまらず、民党は予算を削り、政府は政党との妥協へ進み、やがて政党内閣が成立します。
ただし、その発展を過大評価することもできません。帝国議会は天皇主権の制度のなかにあり、内閣や軍を現在の国会のように統制できず、政治参加から長く排除された人々もいました。
帝国議会とは、完成した民主政治ではなく、限られた制度から始まり、対立と妥協を重ねながら議会と政党の力を広げていった政治の舞台だったのです。
議会政治の前後を、さらに読む
国会を求めた運動、議会を定めた憲法、政府と政党の接近。その順番で読むと、帝国議会が生まれ、政治を変えていった流れがつながります。
主な参考資料
- 大石学監修『一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2024年、130〜142頁、184〜203頁
- 国立公文書館「明治23年(1890)11月|第1回帝国議会が開会する」
- 国立国会図書館「第1回衆議院議員選挙で当選した人々」
- 国立国会図書館「史料にみる日本の近代 第2章 明治国家の展開」
- 国立国会図書館「議会開設百三十年記念 議会政治展示会目録」
- 国立国会図書館「貴族院と日記――明治期を中心に」

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