1900年9月15日、伊藤博文を総裁とする新しい政治組織が発足しました。
集まったのは、政府で制度を動かしてきた官僚出身者と、自由民権運動の流れをくみ、衆議院で活動してきた旧憲政党の議員たちです。かつて政府と政党として向き合った勢力が、一つの組織で政権を担おうとしました。
その名は、立憲政友会。自由党や立憲改進党がすでに存在していたため、日本最初の政党ではありません。しかし、政府の政策立案力と衆議院の多数を結び、長く政権を担う大政党の出発点になりました。
なぜ、憲法と内閣制度を作った伊藤が、晩年になって政党を必要としたのでしょうか。結成までの行き詰まりから、西園寺公望、原敬へ受け継がれた歩みまでをたどります。
立憲政友会をひとことで表すと
立憲政友会とは、1900年に伊藤博文を総裁として結成され、官僚出身者と旧自由党系の議員を結び、衆議院の多数を基盤に政権運営を目指した政党です。
明治末から大正・昭和初期の政治で中心的な役割を果たし、1918年には総裁の原敬が本格的な政党内閣を組織しました。1940年、戦時下の新体制運動のなかで解党するまで約40年間続きます。
| 結成 | 1900年9月15日 |
|---|---|
| 初代総裁 | 伊藤博文 |
| 主な母体 | 旧憲政党員(旧自由党系)・伊藤系官僚出身者 |
| 主な総裁 | 伊藤博文、西園寺公望、原敬、高橋是清、田中義一、犬養毅など |
| 役割 | 衆議院の多数と政府を結び、政党を基盤とする政権運営を進めた |
| 解党 | 1940年 |
なぜ政府は政党を必要とするようになったのか
出発点は、1890年に開かれた帝国議会です。大日本帝国憲法のもとでは、衆議院の多数党が内閣を作る決まりはありませんでした。首相や大臣は議会ではなく天皇に対して責任を負うとされ、藩閥・官僚を中心とする内閣が続きます。
しかし、法律と新しい予算を安定して成立させるには、議会の協賛が必要でした。政府が軍備拡張や増税を進めようとすると、衆議院の民党は民力休養・政費節減を掲げて反対します。
政府は議会工作、衆議院の解散、1892年の選挙干渉まで行いました。それでも、政党の影響力を消すことはできません。政府にとって政党は、排除すれば済む相手ではなく、政策を実現するため交渉すべき相手になっていきました。
| 年 | 政府と政党の関係 |
|---|---|
| 1890年 | 帝国議会開会。政府と民党が予算をめぐって対立 |
| 1892年 | 第2回総選挙で政府による大規模な選挙干渉 |
| 1896年 | 第2次松方内閣が大隈重信の進歩党と協力 |
| 1898年 | 自由党と進歩党が憲政党を結成し、最初の政党内閣が成立 |
| 1900年 | 伊藤博文と旧憲政党勢力が立憲政友会を結成 |
立憲政友会は、対立の外側から突然現れたのではありません。政府と政党が10年間にわたり、対立と提携を繰り返した末に生まれた組織でした。
1898年の政党内閣は、なぜ短命に終わったのか
立憲政友会の結成を理解するには、その2年前に成立した日本最初の政党内閣を見る必要があります。
1898年、旧自由党系と進歩党が合流して憲政党を結成し、衆議院の大勢力になりました。大隈重信を首相、板垣退助を内務大臣とする隈板内閣が誕生します。
しかし、旧自由党系と旧進歩党系の対立、閣僚人事をめぐる争い、尾崎行雄の共和演説事件などが重なり、内閣は約4か月で崩壊しました。憲政党も再び二つに分裂します。
この失敗は、「政党には政権を任せられない」と見る材料になりました。一方で、衆議院の多数を抜きに安定した政権運営はできないという現実も変わりません。
必要だったのは、民権運動以来の議員だけを集めた政党でも、議会から離れた官僚だけの政府でもなく、政策を作る力と議会で可決する力を一つにした組織でした。
伊藤博文は、なぜ自ら政党を作ったのか
新党結成の中心に立った伊藤博文は、初代内閣総理大臣であり、大日本帝国憲法制定の中心人物です。政府の制度を作った伊藤が政党へ向かったことは、一見すると大きな方針転換に見えます。
ただし、伊藤が突然、現在の議院内閣制や国民主権を目指したわけではありません。憲法の枠組みを維持しながら、政府と衆議院を結び、政策を継続して実行できる政治組織を作ろうとしたのです。
伊藤の構想に対し、同じ長州出身の山縣有朋は、政党から距離を置く超然主義を重視して反対しました。明治政府の有力者のなかでも、政党を政治の内側へ取り込むか、政府から切り離すかで意見が分かれていたのです。
伊藤の歩みと制度づくりは、伊藤博文とは?で詳しく紹介しています。
誰が立憲政友会へ集まったのか
立憲政友会は、伊藤一人の支持者だけで作られた政党ではありません。大きく分けると、二つの流れが合流しました。
- 伊藤系の官僚出身者:政府で行政や政策立案に関わってきた人々
- 旧憲政党の議員:旧自由党系を中心とし、衆議院と各地方に政治基盤を持つ人々
旧憲政党側で提携を進めた中心人物が星亨です。星らは、政府に反対するだけではなく、政府有力者と協力して政権へ参加する道を探っていました。伊藤側も、官僚出身者を中核としながら都市の商工業者などへ支持を広げる構想を持っていました。
後に政友会の運営を支える原敬も結成に参加します。官僚としての経験、衆議院の議席、地方組織を持つ人々を同じ政党へまとめたことが、政友会の強みになりました。
なぜ「政友党」ではなく「政友会」なのか
伊藤は、新組織を従来の政党のイメージから切り離そうとし、名称を「党」ではなく「会」としました。幅広い人々を集める倶楽部のような組織を構想したとされています。
会則草案を見ると、東京の本部と地方支部、政策を調査する評議員、広報を担う会報局、地方へ派遣する遊説員、毎年の総会などが想定されていました。単に国会議員が集まる会派ではなく、中央と地方を結び、継続して活動する全国組織を目指していたことが分かります。
総裁には評議員や幹事を選び、他党・政府との交渉を統制する強い権限が置かれました。さまざまな出身の人々を一つにまとめるため、総裁を中心とする組織設計が必要だったのです。
1900年9月15日、立憲政友会が結成される
1900年9月15日、立憲政友会が正式に成立し、伊藤博文が初代総裁になりました。国立国会図書館が紹介する記録では、発会式には1400人余りが参加したとされています。
翌10月、政友会を基盤に第4次伊藤内閣が発足しました。外務・陸軍・海軍の各大臣を除き、閣僚は政友会員で構成されます。政友会は結成直後から、反対党ではなく政権を支える与党として出発したのです。
けれども、これで政党政治が完成したわけではありません。衆議院で多数を持っていても、貴族院、元老、軍部、官僚、政党内部など、政治を動かす力は複数に分かれていました。
次のページでは、第4次伊藤内閣が直面した壁と、西園寺公望・原敬が政友会をどのように育てたのかを見ていきます。

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