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1972年の沖縄返還と日中国交正常化|戦後外交はどう変わったのか

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1972年、日本の戦後外交を大きく変える二つの出来事がありました。

5月15日、アメリカの施政下にあった沖縄の施政権が日本へ返還されます。

9月29日、日本政府と中華人民共和国政府が共同声明を発表し、外交関係を樹立しました。日本は中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と認めます。

沖縄返還は、1945年の沖縄戦後から27年間続いた米国施政を終わらせました。日中国交正常化は、敗戦後に正式な外交関係がなかった中華人民共和国との政府間関係を開きました。

二つは別々の交渉です。共通するのは、第二次世界大戦と占領・冷戦によって分断されていた地域関係を、日本政府が新しい国際環境に合わせて組み直した点です。

一方で、沖縄の米軍基地は残り、台湾との外交関係は終了しました。「正常化」や「返還」という言葉の後にも、基地、安全保障、歴史認識、領土、台湾をめぐる課題が続きます。

1972年の二つの転換

回復した関係と、残った課題

5月15日|沖縄返還

日本の施政権が回復し、日本国憲法と国内法が全面的に適用。

米軍基地と基地負担は継続

9月29日|日中国交正常化

中華人民共和国と外交関係を樹立し、政府間交流を開始。

台湾との外交関係は終了

目次

沖縄はなぜ27年間、日本と異なる統治下にあったのか

1945年の沖縄戦で、アメリカ軍は沖縄を占領しました。

1951年に調印されたサンフランシスコ平和条約第3条は、奄美、小笠原、沖縄などをアメリカの施政下に置く仕組みを認めました。

1952年に平和条約が発効し、日本本土は独立を回復します。しかし沖縄では、米国民政府と琉球政府による統治が続き、日本国憲法の全面的な適用外に置かれました。

朝鮮戦争と冷戦の中で、沖縄の基地はアメリカの東アジア戦略にとって重要性を増します。土地の強制接収、新しい基地建設、軍用機事故や米軍人による事件が起き、住民の権利と生活へ大きな負担を与えました。

沖縄では祖国復帰運動が広がり、日本政府も施政権返還を外交課題にしました。

沖縄返還交渉はどのように進んだのか

1953年に奄美群島、1968年に小笠原諸島が日本へ返還されました。沖縄の返還は、米軍基地の役割と核兵器の扱いが大きな争点でした。

1969年11月、佐藤栄作首相とニクソン米大統領は共同声明を発表し、1972年中の沖縄返還へ具体的な協議を進めることで合意します。

日本政府は「核抜き・本土並み」を掲げました。「核抜き」は沖縄から核兵器を撤去すること、「本土並み」は日米安全保障条約と日米地位協定を本土と同じように適用することを意味しました。

1971年6月17日、日米両政府は沖縄返還協定へ署名します。協定は両国の議会承認を経て、1972年5月15日に発効しました。

返還で何が変わり、何が残ったのか

沖縄県が再び設置され、日本の行政権・司法権・立法権が及ぶようになりました。

日本国憲法、国会の法律、日本の裁判制度、円通貨などが適用され、沖縄の住民は日本の政治・社会保障制度へ全面的に組み込まれます。

一方、返還後も多くの米軍基地は日米安全保障条約と日米地位協定に基づいて存続しました。

施政権の返還は、米軍基地の全面返還を意味しません。日本の国土面積に占める沖縄県の割合に比べ、米軍専用施設が沖縄へ集中する問題は続きました。

返還によって主権・法制度上の分断は解消されましたが、基地負担と土地利用、安全、事件・事故をめぐる課題は残りました。

なぜ1972年に日中国交正常化が実現したのか

1949年、中国大陸で中華人民共和国が成立しました。中華民国政府は台湾へ移り、日本は1952年に中華民国と平和条約を結んで外交関係を持ちました。

冷戦下の日本はアメリカの対中政策に沿い、中華人民共和国と正式な外交関係を結びませんでした。一方、民間貿易や人的交流は続き、国交正常化を求める動きもありました。

1971年、国際連合総会は中国の代表権を中華人民共和国政府へ移しました。同年、アメリカのニクソン大統領が訪中を発表し、米中接近が世界へ衝撃を与えます。

1972年2月、ニクソン大統領が中国を訪問しました。7月に首相となった田中角栄は、国際環境の変化を受けて国交正常化交渉を急ぎます。

田中首相と大平正芳外相は9月に北京を訪れ、周恩来首相らと交渉しました。9月29日、両政府が共同声明へ署名します。

日中共同声明は何を決めたのか

第1項は、日本国と中華人民共和国の「不正常な状態」が声明発出の日に終了するとしました。

第2項で、日本政府は中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府として承認しました。

第3項で、中華人民共和国政府は台湾が自国領土の不可分の一部だと表明し、日本政府はその立場を「十分理解し、尊重」し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持するとしました。

日本が中国側の台湾に関する主張を、そのまま法的に「承認」したと書くと共同声明の文言と異なります。「理解し、尊重」という表現を確認する必要があります。

第4項は1972年9月29日から外交関係を樹立することを定めました。

第5項で、中華人民共和国政府は日本国に対する戦争賠償の請求を放棄すると宣言します。

両国は、主権・領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等・互恵、平和共存を関係の原則とし、平和友好条約の締結を目指すことでも合意しました。

台湾との関係はどうなったのか

日本が中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府として承認したため、中華民国政府との外交関係は終了しました。

日本政府は、1952年の日華平和条約が存続する意義を失い、終了したと表明します。

その後、日本と台湾の間では大使館を置く正式な国交に代わり、民間窓口機関を通じて経済・人的交流を維持する仕組みが作られました。

日中国交正常化は、中華人民共和国との関係を開くと同時に、台湾との関係を非政府間の枠組みへ切り替える選択でした。

二つの出来事は戦後外交をどう変えたのか

沖縄返還によって、日本は平和条約発効後も残っていた米国施政下の主要地域の施政権を回復しました。

日中国交正常化によって、日本は東アジア最大の国である中華人民共和国との政府間外交を開始しました。

一方、沖縄では米軍基地が残り、日米安保体制の負担が集中します。中国との関係では、台湾、戦争責任、歴史認識、領土をめぐる課題がその後も続きます。

1972年は戦後処理が完了した年ではありません。戦後の分断を一部解消し、新しい関係を始めると同時に、残る問題の枠組みが形づくられた年です。

1972年の二つの転換

1969年11月|沖縄返還で日米合意

佐藤・ニクソン共同声明で1972年中の返還へ協議を進めました。

1972年5月15日|沖縄返還協定発効

沖縄の施政権が日本へ返還され、米軍基地は安保条約の下で継続しました。

1972年9月|田中首相が訪中

周恩来首相らと、国交、台湾、戦争賠償などを交渉しました。

1972年9月29日|日中共同声明

日中が外交関係を樹立し、日本と台湾の外交関係は終了しました。

まとめ|戦後の分断を解き、新しい関係と課題を生んだ

1972年5月15日、沖縄返還協定が発効し、アメリカが持っていた沖縄の施政権が日本へ返還されました。

9月29日には日中共同声明が発表され、日本と中華人民共和国が外交関係を樹立しました。

沖縄返還によって日本の法制度と行政が沖縄へ全面的に及ぶようになりましたが、米軍基地は安保条約の下で残りました。

日中国交正常化によって中国大陸との政府間交流が始まりましたが、日本と台湾の外交関係は終了し、非政府間の関係へ移りました。

二つの出来事は、戦争と占領・冷戦が残した分断を一部解消しました。同時に、沖縄の基地負担、台湾との関係、歴史認識など、その後の外交・安全保障で向き合う課題の形も定めました。

参考資料・参考図書

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